法政大と明治大の権力闘争を言論封殺に利用した、右翼・軍部の「巧妙な手口」自由な校風で知られる明治大(左)と法政大も、かつては言論統制の嵐に飲み込まれた Photo:PIXTA

右翼の台頭を許した「法政騒動」とは
荒木陸相を招へい、「皇道教育」徹底

「法政大学に危機 予科47教授 結束・辞表を提出 学内の騒ぎ急転」

 1934年1月7日、当時の東京朝日新聞に大きな活字が踊った。いわゆる「法政騒動」だ。法政大学には当時、夏目漱石門下の教授が多くいたが、騒動は、同じ漱石門下の野上豊一郎と森田草平の権力争いの様相を呈していた。

 英文学者で能楽研究者でも知られた野上は漱石門下の教授の筆頭で、学監兼予科長の要職にあった。だが同じ漱石門下で野上の招きによって教授に就任した森田が、野上を中心とする大学経営や人事に不満を持ち、4項目の要望を掲げて、野上排斥運動を展開した。

 具体的には、当時の秋山学長事務取扱の処遇、隣接する旧陸軍用地の購入、大学財政の赤字処理、大学OBの教員への採用が焦点だったが、野上は解職され、野上を支持する47人の教授らが辞表を提出した。記事は、内紛の顛末を大々的に報じるものだった。

 その後、最終的に森田も解職され、喧嘩両成敗で一応決着する。だが事態を収集した人物が、戦時下の法政の命運を握ることになった。官立大学で対立が起きれば、文部省が介入して沈静化するが、有力仲介者のいない私立大学は、OBらも巻き込んで確執がエスカレートすることがある。そして騒動は大学の大きな転機ともなる。