
滝川事件、天皇機関説問題を主謀
「非国民」という言葉を生んだ黒幕とは
戦時色が強まるなか、早稲田大学や慶應義塾大学で起きたリベラル思想を持つ教授らへの弾圧や、大学内の自由な言論や自治が封殺されていく契機になったのは、1933年の京大滝川事件と35年の天皇機関説事件だ。
しかも、2つの事件を主導したのは、「大学教授思想検察官」とも呼ばれた蓑田胸喜という一人の人物だ。
「皇国の国体を破壊する。社会の木鐸を任ずべき帝国大学の教授、学者の著述であり、痛恨に堪えない。学匪である」
1935年2月、議会の壇上から強烈な批判の言葉が延々と投げかけられた。発言者は、元軍人で貴族院議員だった菊池武夫。「学匪」と攻撃を受けたのは、東京帝大教授を務め、貴族院の勅撰議員でもあった憲法学者、美濃部達吉だ。美濃部は、統治権は国家にあり、天皇は日本国政府の最高機関の一部として内閣などの他の機関の輔弼を得ながら統治権を行使するという「天皇機関説」を唱えていた。
この説は 国民の代表機関である議会は内閣を通して天皇の意思を拘束し得るとして、政党政治に理論的基礎を与えたものだった。1920年代から30年代前半にかけて天皇機関説は学会の通説となり、民本主義や「大正デモクラシー」を支える。だが「5・15事件」などを機に政党政治が不全となり軍部が台頭すると、軍国主義が広がり天皇を絶対視する勢力が力を得ていった。