
学生のはなむけに“最後の早慶戦”提案
一方で軍部に積極的な協力姿勢の「なぜ」
学徒出陣を控えて1943年10月16日に行われた早稲田大学と慶應義塾大学の野球部の壮行試合は、慶応側が「出陣する学生のはなむけに」と、持ちかけたものだった。
「飛田さん、早慶戦をやりましょう。神宮球場でやりましょう。文部省体育局があれこれいう筋合いではありませんよ」
この試合を描いた映画『ラストゲーム最後の早慶戦』(2008年公開、神山征二郎監督)で、石坂浩二演じる慶應義塾塾長の小泉信三が、柄本明演じる早稲田野球部顧問の飛田穂洲にこう訴える場面がある。
文部省や軍の反応を心配する飛田に対して小泉は、「思い出をつくってやりたいのですよ。否応もなく武器を持たされて戦場に向かう若者たちに、せめてせめて、生きていた証を残してやりたいのです」と話す。小泉は口にしないが、前年に24歳の長男が戦死していた。
映画では、壮行試合に積極的な小泉と、政府や軍部の動きを警戒して開催に後ろ向きの早稲田総長田中穂積が、好対照で描かれている。試合当日、田中は姿を見せなかった。一方、小泉は早稲田側から「ネット裏にお席を用意しています」と誘われたが、「いや、私は学生諸君といっしょにいる方が楽しいので」と学生席に座った。
心ならずも戦地に赴く学生に寄り添う小泉の姿勢は一貫している。だが戦時中は別の顔も見せていた。
小泉は、自由主義経済学者、マルクス主義批判の知識人、非開戦論者として語られ、戦後は皇太子教育の全権委任者として著名だ。満州事変から2年後の1933年に塾長に就任し、47年まで務めた。親子2代で塾長になり、慶應本流に位置した。
だが戦時中は、好戦的発言で学生を戦地に送り出した。当時の早稲田大学総長の田中穂積は、軍部・文部省との対立を避けることに注力したが、小泉は積極的な協力姿勢が際立っている。とりわけ、日中戦争が始まる1937年頃から勇ましい言動が目立つようになった。そこには慶應ならではの苦悩があった。