東京地検特捜部は小沢一郎民主党代表の公設第一秘書・大久保隆規容疑者を政治資金規正法違反(虚偽記載など)容疑で起訴した。しかし、小沢代表は「不公正な権力の行使」「(秘書の起訴を)納得できずこのまま認めれば日本の民主主義のあり方にかかわる」と、検察を批判した。

 民主党内には小沢代表の辞任を求める意見が強いものの、鳩山由紀夫幹事長が「国策捜査」との認識を示すなど、検察の捜査そのものに対しては疑問を呈している。一方、自民党は「国策捜査などあり得ない」と、民主党を強く批判した。今回は、果たして検察による「国策捜査」はあるのかを、「検察vs政党政治」の約100年間に渡る戦いという歴史的観点から考えてみたい。

平沼騏一郎による政党政治潰し

 「検察VS政党政治」は、平沼赳夫衆院議員の祖父で、検察官僚であった平沼騏一郎の台頭から始まったと言われる。ちょうど100年前の1909年、製糖を官営にしようとして大日本製糖の重役が手分けして金を配った「日糖疑獄」という事件が起こった。代議士に次々と逮捕者が出たために、当時の桂太郎首相は検察に対して捜査の停止を要請した。これは、「政治による司法への介入」であったが、桂首相と交渉した当時民刑局長だった平沼は、これを逆手にとれば「司法が政治に介入できる」ことに気付いた。そして汚職事件に関連している政治家を罪に問うかどうかを交渉材料として、政治に対して影響力を行使しようとする「政治的検察」が誕生した。

 1914年、「ジーメンス事件」が起こる。ジーメンス社東京支店のタイピスト、カール・リヒテルがある秘密契約書および仕様書を盗み、ヘルマン支店長が日本海軍高官にリベートを渡しているとして金をゆすろうとしたことがドイツで発覚した。検事総長に昇格していた平沼はこれに目を付けた。平沼の指揮によって検察が政治へ介入した。そして、マスコミと帝国議会が山本権兵衛首相を泥棒呼ばわりし世論を煽った。当時、山本内閣は大行財政改革を打ち出していたが、議会の紛糾によってそれは頓挫し、遂に内閣総辞職した。しかし、事件が沈静化した後、山本首相が全くの無罪であったことがわかった。

 1925年、普通選挙法を議会で審議中の加藤高明内閣に平沼は接近した。そして普通選挙法の成立を検察が妨害しないことを条件として、加藤内閣に圧力をかけて治安維持法を成立させることを認めさせた。この法律によって、検察は政友会を内部崩壊させ、「議会中心主義」を標榜する民政党を攻撃し、社会主義政党や共産党を弾圧した。検察は政党政治を徹底的に破壊しようとしたのである。

 そして1934年、平沼は枢密院副議長として、「帝人事件」の捜査を陰で操った。中島久万吉商相、三土忠造鉄相ら政治家、大蔵官僚らを次々に逮捕し、斉藤実内閣が総辞職した。しかし、この事件は実に逮捕者約110人を出しながら、公判では最終的に、全員が無罪となった。「帝人事件」は空前のでっち上げ事件と言われる。