ヘンリー・フォード ヘンリー・フォード(1863~1947)には技術者、発明家そして起業家の血が同居している。技術者としての才能と好奇心から、フォードは自分の庭で自動車のプロトタイプを開発した。その鋭い嗅覚を信じて、フォードモーター社を設立し、プロトタイプの開発に着手する。1924年にはT型フォードの生産累計が1000万台に到達した。

 T型フォードは、「ボディが黒である限りどんな色でも選べる」、という彼一流の言いまわしでも有名なクルマだ。この間にフォードは、それまでの地上のスピード記録を破ったばかりでなく、生産方式の常識をも打ち破った。生涯にわたって、組立ラインを活用した大量生産方式の導入に打ち込むことにより、それまでの製造の姿を根底から覆した。これ以上に「パラダイムシフト」の言葉がふさわしい変化はない。

成功への階段

 1963年、ミシガン州デトロイト近郊のグリーンフィールドにある父の農場で生まれる。少年時代、機械や機械技術に非常な興味を示している。友人の腕時計を分解しては組み立てるのが大好きで、まだ高校にも行かないころに、ガラクタからエンジンを組み上げていた。ものを改良する方法を常に考えていた。「子ども心に、もっとやり方を工夫すればたくさんのことができるのではないかと思っていた」とのちに語っている。「だから機械の世界に飛び込んだ」

 16歳で学校を辞め、フォードはデトロイトのジェームス・フラワー社でエンジニアとして働くことにした。週給2ドル50セントというわずかな給料の足しにするために、夜は宝石店でも働いた。9ヵ月間へとへとになるまで働いたのち、違ったタイプの機械技術で自分の腕を試そうと、ドライドックエンジンワークス社に移る。1896年には、デトロイトにあるエジソンの電気製品の工場でチーフエンジニアになっていたが、自分の技術力がそこの仕事に埋没してしまっていることに我慢できず、自宅で機械設計のプロジェクトを温め続けた。

 戦略的な計画を生み出す能力は、この早い段階ではまだ未成熟だったようだ。自動車のプロトタイプ第1号は、自宅の納屋で組み上げた原動機付き4輪車だった。この革新的な馬なし馬車はサイズが大きすぎ、そのままでは納屋から出せなかったため、納屋の一部を壊して外に出さざるを得なかった。8年間、フォードは毎日12時間の勤務を終えて帰宅した後、自分の発明に取り組んだ。ところが、自動車そのものの将来性が理解されず、いくら説得しても誰もそれに投資をしてはくれなかった。

 フォードにとっての転換点は、グロスポイントの自動車レース用にクルマをつくったときに訪れる。経験不足であったにもかかわらず、フォードは次々にレースに出場し、自分でクルマをドライブして圧倒的な勝利をおさめた。翌1902年にもまた、この離れ業を演じている。この勝利によって、資本家をその気にさせ、いくつかの会社でつまずきはしたものの、そのあとに設立したフォードモーターを軌道に乗せることができた。