ダイヤモンド社刊
2415円(税込)

「分析に対置するものとしての知覚こそ、実に一〇世紀以降の日本画における継続的な特性である」(『すでに起こった未来』)

 日本の歴史と社会についての第一人者、エドウィン・O・ライシャワー元駐日大使が、その著『ザ・ジャパニーズ』において、日本は第一級の思想家を生み出していないと言ったとき、ドラッカーは、日本の特質は“分析”ではなく、“知覚”にあると言ってくれた。

 ドラッカーは、中世における西洋最大の偉業、トマス・アクィナスの『神学大全』に対置するべきは、宮中の愛と病と死の描写からなる世界最高の小説、紫式部の『源氏物語』だという。

 近松門左衛門の文楽と歌舞伎は、カメラとスクリーンこそ使わなかったが、高度に映画的だともいう。登場人物は、何を言うかよりも、どう見えるかによって性格づけされる。誰も台詞は引用しないが、場面は忘れない。

 近松は、映画のための道具はなに一つ使わずに、映画の技法を先取りした。役者が不動の形を取る見得は、まさに映画のクローズアップである。

 ドラッカーの洞察は、日本の近代社会の成立と経済活動の発展の根底には、その伝統における知覚の能力があると看破する。これによって日本は西洋の制度と製品の本質を把握し、再構成することができたという。日本の真価はこの知覚の能力にある。

「日本について言える最も重要なことは、日本は知覚的であるということである」(『すでに起こった未来』)