常に自分を疑い続けて
観客とのつながりを探る

──これまでの話からはジャーナリストに似ている部分も感じます。

 そうかもしれません。自分が知りたいこと、自分が感じた違和感をスタートに、仮説を立てて一生懸命、裏付けをしていく。「大人は熱烈な恋愛をしていません」というのが僕の発見した事実だとしたら、それは本当に当てはまるのかと。その仮説が本当に世の中とつながっているのかと。果たしてその物語を何人が欲しているのか、何人とつながっているのだろうかと確かめています。その過程はジャーナリスティックだと思います。

──対談イベントで、川村さんと新海監督とが観客に向かって「次にどういう作品を見たいですか」と尋ねていたのは意外でした。

 どんな物語を作ってほしいのか、それを観客に聞いたのかとお考えであれば、それは誤解です。どちらかというと、先に述べたように、自分たちがやりたい物語の裏取りに入っているのかと思います。僕たちはもっとエゴイスティックです。自分が見たいもの、自分がやりたいことしかやりたくない。ただ、それが果たして観客とつながっているのかという確認作業を、物語を紡ぐ過程で必死にやっている。

 やはり僕は自分が見たいもの、読みたいものを作っているだけなのだと思います。例えば、データを取って「最近の若者は、こういうのが好きです」と言われても、その人々の顔は分からないのです。今この世界を生きる大衆の一人としての自分が見たいものから作り始めていく。それ以上の根拠はないのです。

 初めて小説を書くときも、書店に行って自分が読みたいものがどこにあるのかを真剣に考えました。僕は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や、ミヒャエル・エンデ作品とか星新一作品など、大人の読める寓話が大好きです。ただ、そういう本が全然書店になかった。そこで、自分が読みたいけど、まだこの世の中にない「空き地」を探す感覚で描いたのが『世界から猫が消えたなら』という小説でした。その結果130万人以上の人たちとつながることができた。

 それでも、僕は自分のことを常に疑っています。今感じている“時代の気分”は、自分だけの気持ちではないのか。集合的無意識と自分の意識とがつながっているのか。それを突き詰めて物語を、エンターテインメント作品を作っているのです。なので、まさに今僕が感じている“気分”を描いた『四月になれば彼女は』という小説が世の中とどうつながることができるのか、怖くもあり、とても楽しみでもあります。