昭和28年10月、幸一は、東京出張所の所員である中村平之助と通訳として惣司秀雄(後の宣伝部長)を伴い、日本ラバブル・ブラジャー社へ乗り込んでいくことにした。

 夜行で東京に向かい、到着するとすぐ皇居に参拝した。日本の威信をかけて彼らの挑戦を受けて立たねばという気持ちが、自然とそうした行動に駆り立てたのだ。

 先の大戦では300万を超える命が失われ、執拗なまでの空爆と2度の原子爆弾投下によってわが国の大地は焦土と化した。幸一はかろうじて戦地から生きて帰ることができたが、死んでいった戦友たちは帰ってこない。

 もう戦争は終わったと思っていたが、ここにまた新たな戦いの火ぶたが切られようとしているのを幸一は肌で感じていた。もう負けるわけにはいかない。

 内心頭の毛も逆立つほどの闘争心がわき出てくるのを、必死に押し殺していた。

 今の段階では、先方の技術が自分たちの遠く及ばないものであることは、はじめからわかっている。どうやって追いつき追い越すかだ……。

 トロイの木馬を仕掛けるような策はないかと、さまざまに思い巡らせていた。

日本ラバブルとの提携交渉

 日本ラバブル・ブラジャー社(東京都江東区永代にあった)では、社長のニコラス・シェンク自らが直々に応対してくれた。

 実はシェンクはアメリカ人ではない。ユダヤ系オランダ人であった。

 戦争中に捕虜として日本に連行され、東京の文化学院に収容されていた縁で同学院の創立者で学長だった西村伊作の五女ナナと戦後結婚している。西村は戦前、反政府思想や天皇批判によって不敬罪で拘禁されているほど自由な考え方の持ち主で、彼の娘は6人中4人までが海外男性と結婚していた。

 アメリカのラバブル社は戦争で傷ついた人々への慈善活動を行っており、日本人捕虜であったシェンクを応援して日本法人を設立したのである。