波瀾万丈のベンチャー経営を描き尽くした真実の物語「再起動 リブート」。バブルに踊らされ、金融危機に翻弄され、資金繰り地獄を生き抜き、会社分割、事業譲渡、企業買収、追放、度重なる裁判、差し押さえ、自宅競売の危機を乗り越え、たどりついた境地とは何だったのか。
本連載では話題のノンフィクション『再起動 リブート』の中身を、先読み版として公開いたします。


真剣勝負──[1996年1月]

 1996年1月、とある日の夜。

 岩郷氏とサシで話し合うために、彼が住む南青山にある有名なヴィンテージ・マンションに向かった。オフィスからわずかに3分。フレックスファームが岩郷氏のために購入した社宅だった。

「岩郷さん。どうも、斉藤です」

 ベルを鳴らして挨拶すると、しばらくして、岩郷氏がドアの隙間から顔を出した。

「おう、社長。怖い顔してどうされましたか。まあ、入りんさいや」

 僕の心に秘めた緊迫感が一瞬にして見抜かれたような応対だった。岩郷氏の勘の鋭さには、常々驚かされていた。わずかに漂う危険な香りを見事に察知し、次の瞬間の動作に反映させる技を体得しているのだ。

「夜分にすみません。実は折り入ってご相談があります」

 広々とした応接間には、ベルサーチのきらびやかな装飾品が品よく配置され、最上階から見える表参道の夜景に彩りを添えている。紺色に光るベルベッドのナイトガウンに巨体を包んだ岩郷氏は、おもむろに僕の向かいのソファに腰を下ろした。

「まあ、これでも飲みましょうや」

 年代物のブランデーが、大きめのグラスにトクトクと音を立ててゆっくり注がれてゆく。それを片手に、どこかすごみを感じさせる笑みを浮かべた岩郷氏が、ゆったりとした声で語りかけてきた。

「わしゃあ、物騒な話は好きじゃないけえのお」

 穏やかな牽制だ。日和りたくなる気持ちを抑え、僕は彼と正面から対峙した。

「いや、そんなことはありません。が、今日はきちんとお話ししたいと思ってきました」

 僕の真剣な表情を見て、岩郷氏も少し構えが変わったようだった。

「社長、どうしたんかね?」

「これまで、岩郷さんには本当に感謝しています。今、フレックスがあるのは岩郷さんがあの時に助けに入ってくれたからで、その恩を忘れたことはありません」

「ほう、それで?」

 いつもと違う。僕の淡々とした態度からなにかの覚悟を感じとったのか、岩郷氏の表情はにわかに固まり、僕の目を貫くように凝視している。

「僕はアダルト系から卒業しようと決意しました。アダルト系のすべての事業を移管する会社を別に設立します。その会社は岩郷さんが経営していただいて結構です。場所も南青山のオフィスを使ってください」

「社長はどうされるんですか?」

「祐天寺にあるオフィスに戻ります。そこで開発チームを中心に、もう一度、ビジネス系事業にチャレンジする。僕はそう覚悟を決めました」

 当時、社員数は30名ほどで、オフィスは南青山と祐天寺にあった。岩郷氏は南青山を引き続き拠点として使う。僕は祐天寺に移り、一般企業に向けて音声応答システムを販売する。それを僕たちは「ビジネス系」と呼んでいた。これまで何度もトライしては挫折を繰り返してきたが、ビジネス系の事業で食べていくことは、僕と福田の悲願でもあった。

「社長、ビジネス系は大変じゃよ。営業を知り尽くしたワシが言うんだから間違いない。知名度のないベンチャーが大企業に売り込むなんて、どれだけ時間がかかるかわからんけえ。悪いことは言わんから、もう一度、考え直しんさい」

 岩郷氏のアドバイスは的確だった。それほど僕の提案は無謀だったのだ。収益事業のアダルト系を放棄し、ビジネス系の事業を新たに立ち上げる。借金は丸抱えし、余裕資金もほとんどない。だが、これでアダルト系とも岩郷氏とも、自らの依存心とも訣別する。それは僕の断固たる決意表明だった。

「岩郷さん、僕は経営者として独り立ちします。危機的な状況にあるのはよく理解しています。しかし、一分でも可能性があるのであれば、僕はそれに向かってチャレンジしたいんです」

 岩郷氏は、やや呆れたように僕を見て、そして言い放った。

「社長も知っての通り、わしは常に『こうきたら、こうする』と、想定できるあらゆるケースをシミュレーションしているんじゃが、社長のこの手は思いつかんかったよ。自殺に近い打ち手じゃけえね。ワシはそれでもええですが……。ただ、今住んでるこのマンションと、乗っとるポルシェは、これまで通りに使わしてもらえんですかねえ」

「わかりました。それで結構です。ただ、経営は明確に分けましょう。僕は今後、アダルト系には一切かかわりません。テクノロジーを武器として、ビジネス系に集中します」

「なるほど。おおよそ社長の考えはわかりました。こまいことは、これから福田たちを呼んで打ち合わせしますわ。ただ、後で言った言わないになるのは嫌なんで、覚書は交わしておきましょうや」

「はい。ありがとうございます。僕は自分自身の時間を、際限のないお金集めではなく、前向きなアイデアとその実現につぎ込みたいんです。倒産までに残された時間はわずかかもしれません。ですが、今一度、原点に戻って、死ぬ気でがんばります」

「わかった。でも社長、なんかあったら、また相談して来てくださいや」

 それで、岩郷氏との話は終わった。条件闘争をすれば、過去にさかのぼって、数知れぬ難儀をつきつけられることはわかっていた。だが、この日は違った。捨て身の僕を目の前にして、さすがの岩郷氏も異論を挟まなかった。彼にとっても損な話ではなかったからだ。

 岩郷氏と出会ってから、すでに約3年の時がたっていた。年商4億円あるアダルト系事業の売上は、言ってみれば、これまで世話になったお礼と手切れ金だ。これは僕なりのけじめのつけ方だった。