中国政府はカルロス・ゴーンに異例の提案を行った。写真は日産自動車と東風汽車の提携会見で握手するゴーン(左)と苗圩・総経理 Photo:South China Morning Post/gettyimages
5工場閉鎖、2万1000人削減――。1999年に日産自動車が打ち出した「日産リバイバルプラン(NRP)」は、壮絶なリストラ計画として知られる。だがカルロス・ゴーンの狙いは“縮小”ではなかった。守りの改革を断行しながらも、米国と中国で生産能力を拡張する攻めの布石をひそかに打っていたのである。一方、中国は78年の改革開放以降、「市場換技術」なる国家戦略を掲げ、巨大市場を武器に日本の自動車メーカーを含む外資の技術を取り込み、世界最大の自動車大国へ駆け上がろうとしていた。日産はこの巨大市場にどう挑み、中国・東風汽車への電撃提携に踏み出したのか。連載『志賀見聞録 自動車産業の半世紀とミライ』の第5回【過去編5】では、中国参入構想から提携成立に至るまでの裏舞台を描く。(日産自動車元COO〈最高執行責任者〉 志賀俊之)
>>第1回【過去編1】「ゴーンさんが羽田空港で逮捕されたらしいです」(2018年11月19日)から読む
>>第2回【過去編2】「ルノーの軍門に降った日」(1999年3月27日)から読む
座間工場など5工場閉鎖のリストラ最中に
米中の生産能力拡大作戦を実行
日産リバイバルプラン(NRP)が策定されたのは1999年10月のことだ。発表から程なくして、私は生産担当の常務と共にカルロス・ゴーンに呼ばれ、思いも寄らない指示を受けた。
「日産自動車が成長するためには、米国市場での拡大が不可欠だ。現在あるスマーナ工場だけでは足りない」
米国に新工場を建設するので、候補地の選定調査を始めよというのだ。しかも当時、日産は村山工場を含む5工場の閉鎖を発表したばかりだった。ゴーンは「当面は極秘で調査するように」と付け加えた。
「リストラのまっただ中に、新工場を建てるのか?」
これまで“日本人の常識”を次々と覆すゴーンの決断を見てきた私でさえ、さすがに驚いた。しかも、投資先は、販売不振で経営危機の一因にもなった米国市場である。
それでもゴーンには勝算があった。米国のディーラーを訪ね歩く中で、米ビッグスリーの牙城となっていた「フルサイズ・ピックアップ(米国特有のピックアップトラック)」市場に参入すれば、戦えると考えたようだ。そして約3年半後の2003年5月、実際にミシシッピ州キャントンで日産の新工場が稼働を始めた。
米国工場の指示があった少し後、2000年2月。今度は私一人が呼ばれた。
「中国市場の戦略を練ってほしい。その実行も任せる」
NRPの初年度を迎え、私は企画部門から現場で戦略を実行する立場に移りたいと考えていたところだった。だからこの指示はうれしかった。
さらに私は、80年代に中国市場を担当しながらも、目立った成果を残せなかった悔いもあった。これはまさに千載一遇のチャンスだった。
私は昔の仲間にも声を掛け、改めて中国市場戦略の策定に取り組むこととなった。その道のりは平たんとは言えなかった。







