松本さんは友人のこんなエピソードをよく覚えていたという。
「かつて、霞が関にいた友人が、驚いたことがあると教えてくれたんです。企業でも個人でも、お金を使うということは、最終的にモノやサービスに変わる、ということになるでしょう。実は、国の予算もそこまで追いかけないと本当の実態はわからない、というんです」
たとえば、高齢化社会対策費、という名目で数百億円の予算がつくられていたとする。だが、その予算が最終的にどんなモノやサービスに変わったかは実はチェックされていない、というのである。
「その友人は、高齢化社会関連の対策費を最後まで追いかけていったそうなんです。すると、地方都市でため池を掘っていた、というんですね。高齢化対策の予算が建設工事に化けていた。そういうことが起こりうる。だから、実は国の予算はすべて、最後のモノやサービスに変わるところまで追いかけていかなければいけないんだ、と」
銀行でも郵便局でも、預けたお金がいろいろな形で使われていくことに関しては、異論はないだろう。これがまさしく金融、世の中にお金が回っていく、ということだからだ。
企業の運転資金や設備投資の資金として、あるいは住宅ローンを組みたい人のために預金者のお金が活用されたりするならば、預けたお金は〝生きた〟お金となる。そして預金者には、貸出金利の一部が、預金金利となって跳ね返ってくることになる。また、公共投資によって、防災対策や福祉施設など、生活に欠かすことができないものがつくられていったとすれば、やはり預けたお金は大いに生きてくる。
だが、実際のところは、必ずしもそうなるわけではなかったのである。先にも触れたように、バブル後に不良債権問題をつくったのは、銀行だった。また、政権交代でも大きな注目を浴びている無駄な政府の支出、公共事業や建築物、天下りによる巨額の退職金など、国のお金の使い方には非効率さがたびたび指摘されてきた。必要なものや重要なものに使われているならば、それは大きな意味がある。だが、お金が無駄に使われていることも現実である。そのお金は、郵便貯金や銀行預金として国民が「貸した」お金なのだ。
そして、国民が「貸した」お金をどう使うかを決めるのは誰なのか。それは、郵便局であり、銀行なのだ。