死に物狂いの労使交渉

 ところが業績が上向いていくと、本格的な労使問題が巻き起こる。

 問題は、工場で働く工員と事務系の従業員の間に待遇の差を設けていたことであった。

 事務系従業員は固定の月給制なのに対し、工員の場合日給制で、遅刻・早退・欠勤があると、その時間分を基本給から差し引かれる。

 遅刻・早退・欠勤があると、その担当者の製造過程が止まってしまって全体の作業に支障が生じることから設けられた制度だったが、遅刻・早退が3日もあると丸1日分の給料がなくなってしまう。働いている者にはあまりに厳しい制度だった。

 おまけに工場従業員は着ている服はもちろん、髪の毛が垂れないよう頭にも三角巾をつけるなど、一見して事務系との違いがわかる制服だったことも工員には評判が悪かった。

 事務系従業員が全員男性ならまだ不満は出にくかったのかもしれないが、内田美代のように少数ではあったが女性社員がおり、工員からはエリート然として見えたのだ。

 ささいなことのようだが、堤防は蟻の一穴から崩れるものである。

 工場で働く工員はほぼ全員が女性だ。中学を出たばかりでこの職場に入り、一家の家計を支えている者もいる。子どもを親に預けていても、熱を出したりして遅刻や早退をしたくなる時があるものだ。

 おまけに工場の環境は劣悪。今のような換気扇もエアコンもなく、工場内はほこりっぽく、夏は暑くて冬は寒い。雨が降ると雨漏りもする。おまけにミリ単位での精度の高さを要求され、毎日厳しいノルマに追われるストレスの強い職場だった。

 昭和33年(1958年)1月、ワコール全社の半分近い300名あまりが働く北野工場ではブラジャー月産10万枚を突破し、大変な勢いだったが、その陰に彼女たちの頑張りがあったのだ。

 そんな彼女たちにとって、労働組合が救いの神のように見えたとしても不思議ではない。いや、救いの神そのものだった。労働組合や共産党を悪者扱いするのは資本の論理にすぎない。当時の従業員は圧倒的な弱者だったのだ。

 北野工場の女性従業員を中心にして団結の機運が高まっていた。そんな折も折、外部から共産党が乗り込んできてオルグし、一夜にして労働組合が結成された。昭和33年の暮れのことである。

 ちょうどこの頃、わが国におけるワンマン経営者の弊害が指摘され、権限移譲の必要性が叫ばれていた。

「社長が先頭に立って交渉するもんやありません。欧米流経営論でいかな」

 そう周囲から言われ、労務担当常務の木本寛治に任せることにした。

 この時点で幸一は、欧米流の経営を模倣することこそが、欧米に追いつくことだと思っていた。まだ彼の中には欧米を越える発想が生まれていなかったのだ。