ただ、被災地の人を想って何かをするのは、基本的に自分のためであること。いてもたってもいられなくなる。これはきっと被災地の人に役立つはずだ。その善意の思い込みは、それぞれの方々に必ずしも合わないこともあり、善意の押し付けになってしまいます。このことに気がつかないと「やってあげているのに」と恩着せがましくなってしまう恐れがあります。
被災地にいる人を
ステレオタイプで見てしまう
まだそれほど多くはありませんが、ネット上で被災者に対する批判が見られるようになってきました。被災者がいま欲しい物を要求しただけで「何でももらおうとする」「要求が多い」というのです。
その被災者は、聞かれたから答えただけでしょう。
逆に、人をムカッとさせるようなことを言う被災者がいるのも事実です。
しかしこれは考えてみれば、ごく当たり前のことなのです。被災地にいた人は、全員が人格にすぐれた人であるはずはありません。もともと図々しい人も、だらしない人も、人に素直に対応できない人も、意地悪な人も打算的な人もいるはずです。そのような人がたまたま被災したことで、それまでの人格がすべて一新され、純粋で善良な人に変わることなどあり得ないのです。前回書いたように、人は急に変らないものです。
「辛い情況に健気に耐える善良な人たち」
私たちは、被災者に対してこんな像を作ってしまっていないでしょうか。今回の被災者は東北の人が多いので、お話を聞いていると確かに謙虚で純粋な方も多いです。ただ、その像にマッチした人を取り上げるマスコミの姿勢との相乗効果で、そうした「被災者人格」のようなものが増幅されている感は否めません。
このことは、障害者に関する問題でもよく語られています。一般に、障害を持つ人はかえって心が澄んでいると思われがちです。この人たちがちょっと俗っぽいことを言ったら、それだけで「とんでもない」という反応を示す人がいます。それだけ勝手に障害者像をつくりあげており、身障者はその期待が重荷になっている一面もあります。
私は、身体障害者のプロレス団体「ドッグレッグス」のリング・ドクターとして、彼らの興行に立ち会ったことがありますが、リングサイドの実況は「あの人は、実は風俗が好きで、たいへんな額の借金がサラ金にあり…」などと、露悪的に語ることがあります。
観客は大笑いで、会場は盛り上がります。もちろん、障害者でありながら必死に頑張るという感動的な場面もありますが、彼らは決して天使ではない。健常者と同じように、お金だって欲しい、有名にもなりたい、女も大好きだ。それなのに、ある意味で差別的な「良い人のはずだ」というレッテルを貼られてしまう。それもある意味で、差別、偏見です。その偏見をなくすために、プロレス興行を行っているのです。