「今、上海に仕事や留学で来ている日本人は数え切れないほどいるが、一部のカブレ者を除く大多数は、資本論はおろか、マルクスの名前も知らず、毛沢東のことも中国元紙幣の顔としか認識していない連中が多すぎる。この国が共産党支配の国家だということを忘れ……」

 そこで隆嗣は、外灘とその後背に広がるビル群が発するきらびやかな光源が作り出す夜景を窓越しに顎で指し示し、言葉を続けた。

「この見た目だけの世界に惑わされ、踊らされているよ」

 幸一は、好奇の虫が疼きだした。

「この国の本質は、共産主義から離れてはいない、ということですか?」

「いいや、いまだに共産党という皇帝が治めている国家だということさ。資本論をいくらかでもかじれば、その皇帝が主張する言葉の裏と、この国の利権の鉱脈が判る」

「さすがに伊藤さんの話には含蓄があるねえ。山中君も、これから伊藤さんにしっかり学んでくれよ」

 岩本が上っ面だけで社交的に応える。

「はい」幸一は、正直言って伊藤氏が語った話を十分には理解しかねていたが、その言葉は覚えておこうと思った。

 マレーシアの中華料理店では味わったことがない、甘目で日本人の舌に適した上海料理を満喫した。ぬる燗の紹興酒に岩本もほろ酔い気分になっている。

「さて、どうしますか?」隆嗣が問う。

「そうですね、次は私が持たせていただきますから『かおり』へ行きませんか? 売上げ協力させていただきます」

「それはお気遣いありがとうございます」

 レストランを出てショッピングセンターの中を通り抜ける。旧正月が明けて間がないため春節気分が抜けていないのか、平日の夜なのに若者や家族連れで賑わっていた。

 先を歩く隆嗣に遠慮しながら、岩本が幸一の耳元へ口を寄せて囁いた。

「覚えておいてくれ、『かおり』というのは、伊藤さんが経営している日本人向けのナイトクラブなんだ」

「そうなんですか」

「そこのママは、彼のコレだと思う」

 そう言って、岩本が自分の小指を指し示した。