すると、隆嗣は煙草を挟んだままの指で路傍を指し示した。そこには闇が保護色となっているような人影が蹲っており、幸一は示されるまで気付きもしなかった。
全身埃まみれで真っ白な髭を乱れるに任せて伸ばしている。布製の綻びた帽子の下は皺だらけの生気を失った老人の顔だった。蹲る老人の膝の前に欠けた茶碗が置かれていて、中には1角や5角の小さな硬貨が数枚入っていた。
「今の小娘は、自分がその気にさえなれば、故郷へ帰る金なんてすぐに稼ぐことが出来たはずだ。200元もの金をそんな小娘に恵むよりも、自分じゃ飯が食えなくなったこの物乞いに、10元与える方がよっぽど人助けだったろうな」
相変わらず抑揚のない隆嗣の声に反発心が湧いた幸一は、再び財布を取り出した。100元紙幣を1枚抜いて老人の茶碗へ入れた。
すると老人は、機械仕掛けのように頭を繰り返し上下させる。謝意を表しているようだが、目はうつろのままで声は出てこない。おそらく老人は、1元の施しにも、100元の恵みにも、同じように頭を上げ下げするだけなのだろう。
そんな幸一のささやかな反抗の態度を看て取った隆嗣は、くるりと背を向けて歩き出した。嘲りなのか、その口元は微かに緩んでいた。
はらはらしながらも、大人としての自制心で初対面の人に意見するのを抑えて黙っていた慶子が、そっと幸一の元へ歩み寄って来た。そして彼の二の腕を優しく掴み、間近に顔を寄せて口を開く。
「あの人が言ったことは正論だと思うわ……。でも、私には、甘い人間のあなたの方が素敵に見えるわよ」
自分を見つめる真っ直ぐな瞳と、彼女から伝わってくる甘酸っぱい香水の淡い芳香が、幸一の胸を穏やかにさせる。それだけで今しがた浪費した300元の値打ちはあった、そう気を取り直した幸一は、慶子を伴い隆嗣の背中を追って歩き出した。
数分後、3人は『クラブかおり』のドアを開け、前回と同じ1階奥のボックスに腰を落ち着けた。隆嗣は先ほどの事件など忘れたかのように相変わらず静かに水割りを口に運び、幸一も努めて明るく振る舞った。
お春ママを慶子に紹介すると、二人の女性は、仲介してくれた岩本会長の話で盛り上がった。
「せっかく上海までいらしたのなら、私も会長さんにお会いしたかったわ」
お春ママが、声を掛けてくれなかった隆嗣へ不満を漏らすと、隆嗣は苦笑いを残して立ち上がり、カウンターに席を移して独りで飲み始めた。その後姿を目で追ったお春ママは、店の小姐たちを呼び寄せて幸一たちの相手を任せ、カウンターの中へと戻って隆嗣の正面に立った。