「岩本会長はお元気でした?」
「ああ……」隆嗣は相変わらず素っ気ない態度のままだ。
「私を気遣って、顔を出すのを遠慮されたのかしら。私たちの過去を知っている方だから……」
寂しげな目を伏せるお春に、隆嗣は目を閉じて頷き返した。
「岩本会長は、優しい人だからね」
しばしの沈黙の後、お春ママは湿った空気を振り払おうと、あえて仕事のことに話を移した。
「そうそう、例の保安会社から、またしつこく催促されたの。常駐の警備員を雇えって」
「月に幾ら払えと言っているんだい?」
隆嗣が、グラスを振って氷の音を響かせながら尋ねる。
「5000元。そんなに大きな負担じゃないけど、店の入り口に厳しい制服姿の警備員が立っていたんじゃ、お客様が嫌がると思うの……」
彼女が言う保安会社とは、警察や公安のOBによって構成されている民間警備保障会社であり、はっきり言えば『天下り会社』だ。
飲酒を目的として深夜営業する店は、警備員を常駐させておかないと危険じゃないか、そう言って警備員の派遣を勧めてきたのだが、それは中国的合法な『みかじめ料』取り立てに相違ない。派遣されてくる警備員というのも定年退職した元警官たちで、彼らの再就職斡旋まで兼ねた互助組織とも言える。
「仕方ないじゃないか。断ったら、警察や衛生局から手入れを受けて、難癖を付けられたあげくに営業停止の処分を受けるのは目に見えている」
隆嗣が溜め息混じりに言うと、お春ママはゆっくりと首を振った。
「そうねえ、仕方ないわよねえ……」
そんな呟きを耳にしながら肩越しに幸一たちのボックスへと目を向けた隆嗣は、彼らが嬌声を上げて楽しんでいるのを確認し、自分の役割は終わったとばかりにそっと席を立った。お春ママひとりに見送られて、隆嗣は夜の上海の路上へと消えていった。