ずっと好きな人がいる、そんなロマンスとは無縁に見える伊藤氏の堅く冷たい表情を思い出して、幸一は少しだけ近付けたような気がした。

「じゃあ、その好きな人は誰? どこにいるんだい?」

「何度訊いても教えてくれないの。恋敵のことは考えたくもないって、冗談で逃げられてしまったわ」

 そう言いながら、またワイングラスに手を伸ばそうとする慶子。ボトルの3分の2は彼女が吸収していた。目も幾分紅い潤みを帯び始めている。見かねた幸一がたしなめた。

「人の恋路を気にするより、自分のことを考えたほうがいいよ。今日は少し飲み過ぎだよ」

「私なんかどうでもいいの」

 慶子が投げやりな声を上げ、その剣幕に幸一はたじろいだ。

「ごめん、余計な事を言ってしまった」

 すると、慶子は手にしたワイングラスを口にすることなくそのままテーブルに戻した。しばらく考える素振りをしてから幸一へ視線を向ける。

「私のほうこそごめんなさい……。覚えてる? 幸一さん。私は日本から海外逃亡して中国へ来た、って言ったことがあるでしょう」

 岩本会長と一緒に初めて食事をした鄭州での夜を思い起こす。

「冗談じゃなくて、本当のことなのよ」

 幸一が怪訝な顔になる。

「本当って、どういう意味ですか? お父様は大きな会社のオーナー社長だし、あなたは綺麗で聡明な女性だ……。何が不満で、何から逃げてきたというんです?」

 無理に問い詰めるべきではないと思いながらも、幸一の若さは開く口を止めることが出来なかった。

「幸一さんは、私のことを金持ちの道楽娘と思っているんでしょうね。父の仕事にかこつけて上海でビジネスの真似事をしている」

 斜に構えた言い方をする彼女に痛々しさを感じた幸一は、懸命に救いの言葉を探した。

「そんなことは思っていないよ。思っていたらこんな風に、その……友達にはなっていないよ」

 口を尖らせて否定する幸一に仄かな笑顔を向けた慶子は、軽く首を振って言葉を続けた。

「実は私、バツイチなの」