(2006年10月、上海)
幸一が目線を上げた。
「明日は中秋節。今日の午後から明日まで、工場は休みになったんだ」
「えっ」幸一が何を話したいのか判らず、慶子は戸惑った。
「それで、休みに何をしようかと考えたんだけど……上海へ行こうと決めたんだ。出張なんて嘘。慶子さんに会いたくなったから、来たんだよ」
今度は慶子が俯いた。
「だから、どうでもいいなんて言わないでください。僕までが、どうでもいいと言われてるような気になってしまう」
言ってしまってから幸一は後悔した。言葉が途切れてしまい、デザートとして出されたフルーツの皿にも手をつけないままで、素面の目に戻った慶子は勘定書をチェックした。すると、店のマネージャーが慶子のクレジットカードと共に30センチ四方ほどの箱を収めた黒い紙袋を持ってやって来た。
「これは1500元以上のお食事をしていただいたお客様に差し上げております。サービスの『月餅』です。ぜひご賞味ください」
日本へも伝わっている中秋節は、中国では大切な行事のひとつ。みんなで月を愛でるのだが、その折に親しい友人や取引先などへプレゼントされるのが『月餅』。昔ながらの中国のお菓子だが、最近では中へフルーツなどを入れたりして、洋菓子の風味を取り入れたものが多い。
紙袋を手にした慶子が、懸命な笑いを表情に浮かべて幸一を誘った。
「こんな大きな月餅をもらっても一人じゃ食べきれないわ。あなたも手伝ってよ。美味しい紅茶を淹れるから、家へ来ない?」
幸一はすでに満腹だったが、彼女の家へ行くための条件ならば、その月餅を全部食べろと言われても構わないと思った。