タクシーは宛平南路にある大きなマンションのゲート前で停まった。エントランス脇に立つ警備会社の制服を着た中年男性に会釈し、壁面のパネルに暗証番号を打ち込んでオートロックの城の中へと入る。
18階にある部屋の玄関を開くと、すぐに8畳間ふたつ分ほどの広いリビングだった。クリーム色の革ソファとガラステーブルが中央に据えられ、壁際を埋めているリビングボードには大きなテレビと幾つかのオーディオ機器が備わっている。
テレビの脇に、高級感溢れる部屋にそぐわない、掌に入るほどの小さな安っぽい人形が控えているのを見つけた幸一は、それを手に取って慶子へ示した。
「うふふ、大切な思い出よ。それを見るたびに、あなたを思い出していたのよ」
それは大連の俄羅斯風情街の屋台で、ふたりして店主と交渉し値切って10元で買ったマトリョーシカ人形だった。その一番外側の赤い衣装に青い眼の少女の図柄が、幸一に微笑みかけてくれている。
「さあ、座ってちょうだい」
紅茶セットをガラステーブルに置いた慶子が、ソファへと誘う。
「月餅には胡桃が入っているみたい。良い香りがするわ」
ティーカップの横には、ケーキ皿に取り分けられた月餅も並んでいる。
「素敵な部屋ですね」
改めて部屋を見回した幸一が賞賛する。彼女の生活が垣間見れる、想像通りの清潔な部屋だった。
「ここはデパートが集まっている徐家匯にも近くて便利なの。上海に住む日本人は古北地区に多いけど、私は日本人が少ないところに住もうと思ってここにしたのよ」
幸一は緊張を隠すように紅茶で喉を潤し、月餅を一欠けら口へ放り込んだ。胡桃の歯応えが心地よく、その香りが鼻腔に伝わる。
「この部屋に決めたもう一つの理由はあそこ。見てみる?」
そう言って慶子が指差したのは、リビングの一方を遮っているオレンジ色の厚いカーテンだった。立ち上がった彼女がカーテンを開くと背が高く広いサッシ窓があり、彼女はカテンとロックを外してベランダへと足を踏み出した。18階の部屋に風が差し込んで来る。
幸一も彼女の後ろに続いた。さすがに秋の夜、涼しさに慶子は肩に掛けていたカーディガンに袖を通し、幸一もブレザーの前ボタンを閉じた。ふたり並んで手摺に寄り添う。
目にしている光景は上海の中心部とは反対方向なので、視界を遮るような高層ビルは近くに見当たらない。光点は数多見えるが、それは赤や青といったきつい色彩ではなく、どちらかというと素朴な黄色い暖色で、地表に近いところで広く密に輝いていた。