「シンガポールの学校を出たと言いましたよね……。僕も、海外逃亡していたんですよ」
慶子が幸一へ顔を向けるが、言葉は挟まない。
「小学4年から中学3年まで、商社マンの父の仕事のために、家族でシンガポールで暮らしたんです……。そして父の転勤で日本に戻り、高校へ進学した。でも、6年も外地で暮らしていた僕には、周りの高校生が当たり前のように使う流行り言葉なんか全然理解できなかったし、人気のテレビ番組を見ても面白いとは思えなかった。電車の乗り継ぎさえ満足に出来なかったんですよ……。
何よりも最悪だったのは、シンガポールという多民族国家で身についた癖、判らないことは遠慮せず人に訊け、という習慣だったみたいで、学校では誰れ彼れ掴まえては質問攻めにしていました。自分ではそんなに目立ったつもりはなかったんだけど、周りからは疎ましい奴だと思われるようになっていたみたいで……。いつの間にか、海外帰りを鼻に掛けていると言われる様になって、そして、誰からも相手にされなくなっていました」
しばらく口を閉ざした幸一は、咳払いをして話を続けた。
「誰も口を利いてくれない。机にはマジックで落書きをされるし、教科書が破られたりしていました……。それで、学校に行くのが嫌になって……引きこもり、って言うのかな、気が付いたら、僕は登校拒否になっていました。起きて食べて寝る。それを、自宅から出ないで半年ほど続けてしまいました」
慶子が左手を伸ばし、幸一の右手の上に重ねて力を加えてくれた。その温もりが手の甲に伝わり、鉄製の手摺を掴む掌の冷たさを忘れさせる。
「そんなある日、親父とお袋が僕に言ってくれたんです。日本が嫌になったのなら、シンガポールへ戻らないか、って……。僕はその時、かなり情緒不安定になっていたんだと思う、泣きながら親父に言ったんだ。日本にいれなくてごめん、と。でも、その時に親父が言った言葉が、僕を救ってくれました」
「お父様は、なんておっしゃったの?」慶子がようやく言葉を挟んだ。
「お前は日本に根が張れなかっただけ。だったら、何年かかってでも、根を張れる場所を自分で探せばいいじゃないか。それは、上っ面だけを生きて根を生やすことを知らずに過ごす人間よりもずっと幸せさ、ってね」
幸一が目を閉じて頬を緩める。慶子もそっと頷いた。
「両親は経済的にかなり無理をしたと思うけど、お蔭で僕はシンガポールの全寮制高校に編入して、そのままシンガポールの大学まで進学させてもらいました……。まだ根を張る場所は見つかっていないけれど、こんな人生に後悔はしていないつもりです」
すると慶子が、今度は右手を差し伸ばして幸一の頬を優しく撫で始めた。
「素敵なお父様ね。あなたがどうして甘い人間なのか、その源泉が判ったわ」
「甘い人間で悪かったね」
幸一は照れ隠しをするようにわざと拗ねた言葉を返した。
「前にも言ったでしょう。そんな甘い人間の……あなたが素敵よ」
慶子がそっと唇を近付けてくる。幸一は手摺から離した両手を彼女の背中へと回した。
背の高いマンションの後ろ、二人が立つベランダとは反対側の天上に、丸い月が青白い表情を見せ、静かに遠慮がちな明かりを注いでいた。
(つづく)