(2007年8月、上海)
「二人は結婚を誓い合っていたの。杭州の実家まで挨拶に来てくれたこともあったわ。でも、留学を終えた隆嗣が帰国してすぐ、1989年の6月に、天安門事件が起きたの。その時に姉がどこにいたのか、天安門にいたのか、それとも上海にいたのかも判らない。何をしていたのか誰も知らない。ただ……それ以降、姉の消息が消えたの。大学に問い合わせても、学生として不適切だったからという理由で除籍処分されていた」
話の意外な展開と深刻さに、幸一も慶子も言葉が出ない。
「連絡が取れなくなって心配した隆嗣も、中国へ飛んできて姉を捜し回ったのよ。私たち杭州の実家へも来たわ。不安と考えたくない想像の中、両親と隆嗣は一緒に泣いていた……」
再び迎春が水割りのグラスを傾ける。
「そして、それっきり姉は消えたままなの。あの人を掴んで放さないまま……。隆嗣は、その後も上海に残って姉の行方を求めていたのよ。5年経っても、10年経っても……そんなある日、私は上海の日本人向けナイトクラブで、彼と偶然再会したの」
「クラブで再会したって……お春さんは、この店を始める前から夜の仕事をやっていたの?」慶子が問う。
「国営企業に勤めていた両親が、職を失ったの。民営化政策が進む中では、年齢が高い人間から先に首を切られてね。だから私は大学進学を諦めたけど、日本語の勉強をしたいと思って上海へ出てきたの。姉の影響、というより、隆嗣の影響だったのかな。昼間、日本語学校に通って、夜は日本人向けナイトクラブで働くという生活を続けていたわ。でも、わずかな年金だけで暮らす両親の生活を助けるために、気が付いたら本職のホステスになっていた。昼間に学校へ行くこともやめてしまってね」
「そんな時に、伊藤さんと再会したのね……?」
慶子が静かな合いの手を入れる。
「そう。10年近く会っていなかったのに、私をひと目で思い出してくれたわ。本当に嬉しかった……。そして、この店を出してくれたのが7年前。今でこそお客様がついてくれて、お店の経営も安定したけど、最初は赤字続きで大変だった。それでも、あの人は黙って続けさせてくれたの。両親に仕送りしても余るほどの高いお給料を、私に払い続けてね……。それが、姉への変わらぬ愛情の捌け口のひとつだと判っていたから、私もあの人に甘えさせてもらったわ」
目に涙は浮かんでいなかったが、迎春が泣いているのは声音から幸一にも分かった。
カウンターの下で、慶子がそっと幸一の手を握る。彼女も心で涙を流しているようだ。