李傑の感謝を聞き流し、腕組みをして目を閉じた隆嗣が、肝心な話を切り出した。

「ところで、いったい何があったんだ。あの1989年6月に……立芳はどこへ消えてしまったんだ?」

 すると、李傑は上目遣いで探るように隆嗣を見た。

「君は、何も知らないのか?」

「ああ」

「本当に何も……」

「あれからすぐに、といっても、7月末だったかな……。俺は上海へ戻って、消息が途絶えた立芳を捜し回った。しかし、大学は除籍処分で友人たちも理由は知らないと言うし、家族も訳が判らないと泣くばかりだ。そして、君たち民主化運動のグループに尋ねようとしたが、みんな同じように行方不明になっていた。華盛大学でも、興工大学でも……。祝平も建平も、そして君もだ」

 睨むかのように真っ直ぐに射る視線を受けた李傑は、目を逸らして話し始めた。

「あの日、6月2日……天安門事件の2日前だ。北京へ行って、天安門広場で政府への抗議デモを行っている同志たちに合流しようと盛り上がっていた我々のグループは、『ある公司のシンパが協力してくれるので、北京まで密かに行けるトラックが調達できる』と、仲間の一人が発言したことで、北京行きを決行することになったんだ。その頃は、学生が北京へ向かうことが規制され、駅にも公安の目が張られていたからね……。
  しかし、俺と立芳はそれに反対したんだ。政府が強硬手段に出るとの噂が流れ始めていたし、立芳は、運動よりも君との将来を選択していたから……。これは、厭味で言っているんじゃない」

「それで」視線を李傑の顔に定めたまま、隆嗣が先を促す。

「決行当日の夜、みんなが出かけた後で、俺は懇意にしていた大学の職員から恐ろしい話を聞いた。密かに公安がやって来て、特定の学生について所在を確かめていた、と。北京行きの情報が公安に漏れていると覚った俺は、トラックを止めるために、手配したはずの公司へ向かった。そして立芳は、みんなに危険を知らせるため、集合場所へと向かった……。
  だが、俺が行った公司の連中は、トラックを回すなんて話は聞いていないと言いやがった。その時に判ったんだ。これは、最初から仕組まれた公安の罠だと。民主化を要求する学生グループの指導者を集めて、密かに一網打尽にするための。
  そして、その悪い予感は当たってしまった。メンバーも、そして立芳も、その夜以来、みんな行方知れずになってしまった……。おそらく、どこかの収容所へ送られたんだと思う」

 隆嗣はソファに背中を押し付けて天井を仰いだ。

「俺は怖くなってね。それで、さっき言った通り、自ら志願して海南島へ渡ったんだ……。上海から少しでも遠くへ離れようと」

 長年彷徨った末にようやく聞かされた事実は、正面から向き合うにはあまりにも救いの無い内容であった。隆嗣は身体中の力が萎えて動けなかった。

「大丈夫か?」

 そんな李傑の言葉も遠くに聞こえた。

(つづく)