隆嗣は、和平飯店の客室ドアが並ぶ廊下を歩きながら杭州での出来事を思い起こしていたが、目指す部屋の前に立つとそれを遮断し、ドアを強くノックした。
「はい」日本語で応じてドアを開けた岩本は、そこに隆嗣の顔を認めると、喜んで招き入れてくれた。
租界時代から続く和平飯店のゲストルームは、歴史を好む人には興味をそそられるだろうが、共産主義に侵されて調度は古臭いまま捨て置かれていて、照明も不十分で薄暗かった。しかし広さは十分にあり、窓際のゆったりとした対面型の肘掛け椅子に二人は腰を下ろした。
「工場での打ち合わせも無事終わりました。予定通り、明日帰国します。これも伊藤さんのお蔭です、本当にありがとう」
先ず自分の報告からすませた岩本は、改めて来訪者の顔を窺って、その思いつめた表情に気付いた。
「どうかしたんですか? 顔色が悪いが……」
岩本の心配をよそに、隆嗣がまっすぐに問う。
「では、すぐに設備を輸出されて、取り決め通り、10月には稼動を始めるということですね?」
「え、ええ。そのつもりです。まあ、稼動が始まっても、すぐに要求する日本品質を満たせるとは思えませんから、技術者を派遣して少しずつ……」
隆嗣が突然椅子から降りて床に跪いた、両手をついて岩本へ頭を下げる様には、鬼気迫るものを感じる。
「どうしたというのですか? 伊藤さん」
訳が判らぬまま慌てる岩本に向かって、隆嗣が声を絞り出す。
「お願いです。その工場で、私を雇ってはいただけませんか? どのような処遇でも構いません。中国の人たちと同じ給料で結構ですから……どうかお願いします」
「とにかく頭を上げてください」
岩本が隆嗣の手を取り、元の椅子へと戻してやった。
「正直言いますと、あなたに来ていただけるならば、私は大歓迎です。いや、私の方からお願いしたいくらいだ。しかし、伊藤さんは、まだ大学生でしょう? 来春卒業と伺いましたが、それから正社員として我が社へ入社していただくことでいかがでしょうか」
「それまで待てないんです。私は、上海を離れるわけにはいきません」
隆嗣の必死な目に圧された岩本は、躊躇いながら踏み込んだ。
「何か、特別な事情があるようですね。よろしければ話してくれませんか?」
隆嗣の話は延々と続いたが、あまりにも衝撃的な内容に、岩本は身じろぎひとつせずに耳を傾け、次第に目頭が熱を帯びてくるのを感じた。