結局、岩本は隆嗣の申し出を受け入れて嘱託社員として採用し、1ヶ月間だけ日本の集成材工場での研修を受けてもらい、10月には上海へ赴任してもらった。もちろんそれなりの給与と海外手当てを保証してのことだ。

 隆嗣は卒業を目前にして大学を中退し、上海で懸命に働いた。隆嗣の身を粉にした工場の監督と問題解決能力により、当時の中国貿易としては奇跡的に不良品もほとんど発生せず、岩本の賭けで他社を出し抜いて始めた中国産広葉樹の集成材は、折からのバブルとその余韻による住宅建材高級化の波にも乗って稼ぎ柱となり、会社の飛躍に大きく貢献した。

 隆嗣は仕事の傍らで彼女を捜し続けていたのだろうが、岩本が何らかの明るい報告を聞くことは出来なかった。

 そして3年間の補償貿易期間が満了を迎えると、岩本は正社員として日本へ戻ることを隆嗣へ提案したが、やはり断られた。彼の心は、まだ上海で彷徨ったままだったのだ。

 3年の間に培った人脈を活かし、独立して上海で仕事を始めた青年は、その才能を開花させて、中国の経済成長の波に乗って成功の道を駆け上った。

 貿易会社である株式会社イトウトレーディングを日本に設立し、緊密な関係を結んだ官僚や国営企業幹部の裏金還流システムを作り上げると、その見返りで木材を始めとする特定商品の輸出を占有して莫大な利益を上げた。

 今でこそ公正自由化の波が進んでいるが、経済開放当初には、外資との合弁企業には税金免除や輸出ライセンスの取得、国営銀行からの融資に際しての優遇など、様々な恩恵が与えられていた。会社は独占したいが恩恵は甘受したいという中国人実業家が少なからず居て、彼らは合弁相手としての名前を貸してくれる企業を欲していた。

 株式会社イトウトレーディングは、そんな特殊な要望にも応じて着々と中国ビジネスの裏側に浸透して行った。やがて上海バブルが花開くと、その裏人脈は股票(株式)市場やマンション開発情報を呼び寄せ、古くからの友人だというアメリカの銀行員と組んで売買を繰り返し、巨額の富を手に入れたらしい。

 そんな隆嗣も、岩本と会うときだけは張り詰めた心の糸を緩めていたようだ。自分から頭を下げた唯一の人であり、それに応えてくれた恩人である。

 中国でも外国独資での貿易会社設立が許可されるようになると、隆嗣は『上海隆栄実業有限公司』を設立した。その名に岩本栄三から『栄』の一字を貰い受けるなど、恩義を忘れぬ律儀さは相変わらずだったが、しかし、時折顔を合わせる彼から、成功者の充実感が伝わってくることはなかった。

 隆嗣は立芳の行方を求め続けていたが、ビジネスマンとして築いた人脈では、政府筋でも経済官僚に限られて、公安関係の情報は掴み難かった。無理に情報を求めようとすると先方は警戒の帳を張るので、隆嗣は事業欲に固まった無害な男を演じる仮面を身に付けることで、中国人社会を泳ぎまわった。

 しかし、何の成果も得られないまま年月だけが過ぎ去り、内心のジレンマを抑制することに慣れた彼は、翳が深まるばかりで表情を失っていった。

 やがて、岩本自身も老いを感じ始め、息子へ社長の座を譲って一線を退いた。

(つづく)