上海に着くと真っ直ぐに華盛大学へ向かったが、そこに立芳の姿を見ることは出来なかった。夏休みのため、宿舎に残っていた学生は少なく、ようやく捜し出した立芳のルームメイトは、何かに怯えたように「彼女は、あの日以来帰ってこない」とだけ教えてくれた。

 そして、それは祝平や李傑など、隆嗣が知る学生運動グループ全員に共通することだった。

 興工大学へも足を運んだが、やはり同じように建平たちも消息不明となっていた。それ以降、隆嗣はあても無く上海の街を歩き続けた。長風公園、魯迅公園、南京路、そして外灘と、彼女と偶然出会えるのではないかという億分の一の可能性を求めて彷徨っていた。

 国際フェリーターミナルの近く、黄浦江の畔に建つ安ホテル、浦江飯店の1泊1000円足らずで泊まれる10人部屋のドミトリーで、冷房もなく蒸された空気の中、暑さのためではない理由で眠れぬ夜を繰り返していたある日、上半身裸で暑さを凌いでいる白人バックパッカーが、隣のベッドでカセットレコーダーを聴いていた。

 絞った音量から微かに流れてきた曲、その聴き覚えある歌声に耳が反応して、隆嗣は胸が高鳴った。夢遊病者のように立ち上がり、白人男性の枕元に置かれたカセットを見つめていると、隆嗣に気付いた陽気なバックパッカーは、明るく声を掛けてくれた。

「良い曲だろ? リチャード・マークスの新譜さ。『ライト・ヒア・ウェイティング』というんだ」

 隆嗣は、頬をつたう涙を止めることが出来なかった。立芳の手紙が途絶えて以降、不安と焦燥に疲弊していたが、涙を流したことは一度もなかった。立芳が好きだったリチャード・マークスの哀愁に満ちた歌声、おそらく、彼女はまだ聴いたことがないであろう皮肉なタイトルの新曲が、隆嗣の胸を抉った。

 白人バックパッカーが異様な隣人に怖れの目を向けていることにも憚ることなく、彼は全身で震え続けた。そして、流した涙の分だけかろうじて理性を取り戻した翌日、外灘で岩本と出逢ったのだった。

 杭州市街の集合住宅、3階にある立芳の実家を突然訪問した隆嗣を、彼女の母は抱きしめて迎え入れてくれた。父親は、狭いダイニングの椅子に腰掛けずっと俯いていた。テーブルの上には、白酒の瓶と杯が無造作に置かれている。隆嗣が何を尋ねても首を振るばかりであったが、最後に父親は言った。

「認命了(運命と諦めよう)、私たちは、文革の時代も乗り越えてきたんだ。あの頃も、ある日突然、友人や親戚たちが消えていった。私たちにはどうすることも出来なかったんだ。同じさ……ひそかな期待を抱き続けて苦しむより、まず諦めよう。そうすれば、いつか立芳が帰ってくる日まで生きながらえることが出来るだろう。諦めることができなければ、私は狂い死にしてしまう……」

 母親はタオルを顔に当てたまま嗚咽を続け、快活だった妹は両膝を抱えて床に座り込んでいた。なんら収穫を得られなかった隆嗣は、かすれる声で丁重に別れを告げて辞去した。

 重い足を引き摺って路地へ出て、遥か先の湖畔に並んでいる柳の黒い影を視界に捉えながら歩いていると、後ろから迎春が追い掛けて来て、潤む声で隆嗣を問い質した。

「あなたも、姉さんのことを諦めるの?」

 隆嗣は迎春へ歩み寄り、その肩へ手を置いて小さな声で宣言した。

「決して諦めない」