(1989年8月、上海)
言論の自由化を推進しようとして失脚した胡耀邦前総書記が逝去したのは、1989年4月15日だった。民主化推進派の学生たちが追悼集会を催したが、それは瞬く間に拡大して、21日には天安門広場で10万人を超す学生デモとなり、国内はもとより世界の耳目を集める運動へと発展した。
5月に入ると、天安門広場に集うデモの群集は50万人に及んだが、ソヴィエト連邦最期の書記長となるゴルバチョフの訪中を控えていた政府は静観の構えを崩さず、膠着状態が続いた。しかし、北京を訪れたゴルバチョフ書記長が5月17日に北京空港から帰国すると、政府は3日と間を置かず、19日に北京市内への戒厳令を布告した。
立芳からの最後の手紙となったのは、6月1日付けのものだった。
『……北京の天安門広場デモに触発された上海の学生たちも、ビラ配りや民主化要求の垂れ幕を学内に掲げたりして、活発化しています。祝平や李傑、それに建平たちのグループも、北京へ行ってデモに合流しようと相談を続けていて……』
しかし、その手紙が隆嗣の手元へ届いた時には、すでに日本のテレビでは天安門広場の惨劇が繰り返し流されていた。戦車の前に立ちはだかる学生、揺り動いて焦点の定まらぬカメラに写しだされる煙と銃声の効果音。鮮明とはいえない画像だが、その奥では阿鼻叫喚が満ちていると想像できる。
隆嗣は、東京の狭苦しいアパートで呆然とテレビを見つめながら、彼女の手紙を握り締めて祈った。彼女は手紙の中で、祝平たちのグループを『我們(私たち)』ではなく、『他們(彼ら)』と書いていた。その表現に、一縷の望みを託していた。
携帯電話など日本でも姿を現す以前の時代、しかも、中国では家庭の固定電話すら普及していなかったので、連絡を取り合うには手紙しかなかった。しかし、それ以降、彼女の手紙が届くことは無く、7月初旬にようやく来たエアメールは、アメリカからのジェイスンの便りだった。
もともと8月に帰国を予定していた彼は、天安門事件のニュースを目にして怯えた両親を安心させるために、幾らかの未練を上海へ残したまま早めに帰国したという。そして、『辛いことだが』と前置きし、天安門事件以降、立芳の消息が掴めないことを教えてくれた。
もはや隆嗣の心は臨界に達し、政府が渡航自粛要請を出しているのにも構うことなく、上海行きの手配に取り掛かった。それでも、中国のビザ取得に2週間近い時間を浪費させられて、ようやく飛行機に乗れたのは、1週間前の7月末のことだった。