祝平もベンチから立ち上がった。
「かまわないさ……。俺には、あの夜の事実を、君だけには伝える義務がある。俺なんかより、君の方が辛い19年間を過ごしてきたんだろう」
唇を噛み、その痛みでわずかな勇気を奮い起こした隆嗣が問いを発した。
「あの夜、本当に立芳は死んでしまったのか?」
祝平が目を閉じて頷いた。
覚悟は出来ていた。隆嗣は、その覚悟を別の方向へ向けるために、次の質問をした。
「それで、公安の犬は李傑だったのか?」
今度は目を大きく見開いて祝平が頷く。そこには消えることのない怨讐が灯っていた。
翌日、5月12日。隆嗣は、上海へ戻る機内にいた。正午過ぎに成都双流空港を離陸した飛行機は、揺れも少なく快適なフライトを続けている。
昨夜は一睡も出来なかった。ファーストクラスのシートに疲れた身体を埋めているが、頭は冴えるばかりで眠れそうにない。祝平の顔と、そして、もう一人の男の顔が脳裏から離れないのだ。腕時計に目を落とすと、まもなく午後2時半だった。
その時、午後2時28分。恐ろしい地の神の咆哮に、四川省は地獄絵図へと豹変しつつあった。
四川大地震、マグニチュード8.0のエネルギーは地形をも変え、そこに住む人々の生活はおろか、命までいとも簡単に呑み下し、そして荒々しく吐き出してしまった。死者・不明者は9万人とも言われ、被災者は5000万人にも及ぶ記録的大災害は、震源地の汶川県を中心に広がっていた。
そして、祝平の第二の故郷であり隆嗣が昨日訪れた茂県は、そのブン川県からわずか50キロしか離れていなかった。
(つづく)