決行の夜。宿舎の部屋でじっとしていることが出来ない立芳は、キャンパス内を彷徨っていた。
風通しのよい白いワンピースを着て沈んだ顔のままゆっくりと歩く彼女の姿は、妖気すら漂わせているようだった。気持ちが落ち着かないのは当たり前だが、先ほどから続く不確かな胸騒ぎが収まらず、そんな自分を宥めようと足の向くままに歩いていた。気が付くと、いつの間にか留学生宿舎の前に来ていた。
自分たち中国人学生と同じ作りの宿舎で、部屋の広さも同じだが、1室当たり8人が押し込められて共同生活している中国人宿舎とは違って、二人ずつ入居している留学生宿舎の窓からは、明かりと共に陽気な音楽や若い笑い声などが漏れてくる。同じ学内にあって、ここだけは別世界なのだ。
「隆嗣。今夜、あなたと私の友人たちが旅立って行くのよ」
すでに帰国している隆嗣が住んでいた部屋のあたりへ目を向けながら、彼女はひとり呟いた。
そこへ、狭い学内の道路を1台の車が近付いて来た。照らすヘッドライトの眩しさに手をかざして確かめると、それは上海号のタクシーだった。停車した車から降り立った李傑が、慌てた素振りで叫びに近い声を上げる。
「ここにいたのか、立芳。助けてくれ」
「何があったの? なんでまだここにいるの?」
立芳は事態が呑み込めず、質問だけが口から出てきた。李傑が彼女の腕を掴む。
「今夜のことが公安に漏れたらしい、みんなを助けたいんだ。手伝ってくれ、立芳」
胸騒ぎはこれだったのか。衝撃を受けた立芳は、李傑に手を引かれるまま一緒にタクシーへ乗り込んだ。走る車内で、李傑の口は休みなく動き続けた。
「仲間の中に、裏切り者がいたらしい。急いでみんなを止めないと……。俺は頼んでいるトラックの中止を連絡しに行かなければならない。すでに11時を回っている。時間がないから、君が魯迅公園まで行ってくれないか」
李傑の言葉を疑うことなく信じた彼女は、仲間の安否が気掛かりとなり、危険を顧みず素直に役割を引き受けることにした。
「わかったわ」
「ありがとう……。いま中山北路を走っているが、西蔵路との交差点で降りてくれないか。そこから魯迅公園まで、歩いて20分ほどで着くことが出来るだろう。俺はこのままタクシーでトラックを手配した公司がある天目路へ向かう」
頷いて了承した彼女は、ヘッドライトに照らされる前方の道路を不安で焦点が定まらぬまま見つめていた。交差点でタクシーを降りた立芳が駆け出す。その背中に向かって、車内から李傑が声を掛けた。
「早くみんなに知らせてくれ。俺も後から魯迅公園へ向かう」