上海市近郊の松江で農家の息子として生まれた青年は、土を相手に報われない苦労続きの人生を送ることに反抗し、上の階級を目指して人民解放軍への入隊を志願した。しかし、鎮長の推薦が何処でどう間違ったのか、配属されたのは武装警察隊だった。

 それでも、格好良い制服を着ることができ、三食を保証された生活に満足していた青年は、国家への忠義を身体に埋め込まれる教育と訓練を素直に受け止め、日々精進を重ねていた。そして今日、その恩義に報いるため、『歯向かう者には容赦するな』という使命を忠実に実践した。

 国家に選ばれて高等教育を受けさせてもらっている大学生の分際で、体制批判を繰り返して騒乱を招く不埒な集団。その先頭で両手を広げ行く手を阻もうとしている女学生が身に纏っている白いワンピースを見た青年は、『故郷の妹は、そんな奇麗な格好などしたことはない』と、任務以上の怒りを警棒に込めて、彼女の左側頭部へ振り下ろした。

 祝平は彼女の右から、そして李傑は左から、立芳が1メートルほど弾き飛ばされる一瞬の出来事を、スローモーションのようにゆっくりとした光景で目に焼き付けた。

 最初の生贄を血祭りにあげて猛る群狼が目の前に現れると、羊たちは戦意を喪失して逃げ惑うしかなかった。気が付くと、小路の奥、反対方向からも別の一隊が迫ってきている。二十数名の学生たちは、その数で倍する戦闘集団に挟まれて、あっという間に囚われてしまった。

 うつ伏せで地面に這った祝平は、背中で馬乗りになっている男の重みも、首を絞める警棒の痛みも感じなかった。警棒の圧力に抗って顔を横に向け、数メートル先に横たわって動かぬ白い塊を、割れた眼鏡のレンズ越しに凝視した。脳漿の中で一つの単語だけが繰り返し響き渡る『なぜだ、なぜだ、なぜ……』

 祝平は、霞む意識の中で聞き覚えのある声を聞いた。

「抵抗するなと言ったのに……」

 倒れた立芳の傍らに李傑が現れ、感情を失った青白い表情で骸を見下ろしている。

「君が悪いんだ」

 彼が口にした言葉を、祝平はそれから19年間片時も忘れることはなかった。

 同じ頃、6月3日深夜。北京でも解放軍の装甲車が天安門広場に集う運動家たちへ密かに接近していた。6月4日未明の悲劇、何千何万もの無辜の民が犠牲となった『天安門事件』の報が世界中を駆け巡ることになるが、上海の片隅で起きた小さな悲劇は、誰にも知られることはなかった。

(つづく)