彼女の姿がヘッドライトの視界から消えると、タクシーが再び発進した。

 それから僅か15分後には、タクシーで先回りした李傑が、再び車中に座っていた。天目路ではなく、魯迅公園の外壁を見渡せる暗い路地に停まっている乗用車の中だ。それは同じ上海号であったが、タクシーではなく、闇に溶け込んだ黒塗りの車体だった。

 運転席と助手席に公安の制服を着た無表情の男たちが座り、後部座席には背広姿で短躯の男性が李傑の隣に座っていた。二人はともに双眼鏡を目に当てて、同じ目標を捉えて観察を続けていた。

 魯迅公園の脇門へと続く小さな路地、その両側に並ぶ街路樹に身を隠すように二十数名の学生たちが潜んでいる。しばらく続くであろうデモ生活のために必要な身の回り品を詰めたバッグを手にして、息を殺し、じっとトラックが来るのを待っている。

 公園の正門がある広い通りでは深夜とはいえ人目に付いてしまうと用心して脇門側を集合場所に選んだのだろうが、一人も逃すまいと待ち構えていた公安側から見れば、狭い通りに集まってくれている方が却って好都合だった。隣席の公安幹部は、舌なめずりをするような顔をしている。

「李君。君が長いあいだ潜入してくれた苦労が、今夜報われる。故郷のお父上も、さぞかし鼻が高いだろう。君は、国家への反逆を企む危険分子を一網打尽に出来る好機を作り出してくれたんだ」

 この男は、江蘇省の共産党委員会で威勢を張っている親父に遠慮して、若造の俺に気を遣っているだけだ。人民解放軍の幹部を父に持つ焦建平を逃がしたのも彼自身の防衛本能であり、国家への忠節心などで動いているわけではない。李傑は冷静にそう分析した上で無言のままでいた。

 彼の無反応ぶりに落胆した幹部は、彼の気を引こうと更に話を進める。

「今日、北京から新たな通達が来た。民主化運動の学生たちへ気遣いは無用、危険分子は徹底して取り締まるべし、とね。中央も、とうとう腹を括ったようだな」

 まだ若い李傑には、その『腹を括った』という言葉が意味することを十分に理解できなかった。性能の良い軍用の夜間双眼鏡の焦点を絞ると、闇に潜む学生たちの顔まで認識できる。丸い視界には、祝平の眼鏡を掛けたインテリ顔が綺麗に映し出されていた。

 『俺は、お前の君子ぶった態度が反吐が出るほど嫌いだったんだよ』心の中で罵声を上げた李傑の耳が、微かな足音を聴き取った。双眼鏡をそちらへ振り向けると、つい先ほど別れたばかりの白いワンピースが、丸い視界に収まった。立芳が、髪を振り乱しながら駆けていた。