もうすぐ11時になろうという遅い時間だが、国際線到着ロビーには出迎えの人垣が途切れない。カートを押す親子連れやリュックを背負ったバックパッカーらに混じって、小さなアタッシュケースだけを携えた隆嗣が、ゲートをくぐって出てきた。
定められた順路に従って人垣の間を通り抜けると、一人の男性が近づいて来る。
「終わったよ」
問われる前に、隆嗣が先に口を開いた。
「いや、終わりじゃない。あいつの償いは、今から始まるんだ」
復讐を見届けるため、19年振りに上海へやって来た焦建平は、隆嗣を元気付けるように力強く言った。
そんな建平の言葉にただ頷いただけで応えた隆嗣は、歩みを止めずに自動ドアを通り抜け、ターミナルの外へ出た。
晩秋の空気は麻ジャケットで凌ぐには冷たいが、隆嗣は寒さを感じなかった。ポケットから取り出したマルボロを口に咥えると、隣から建平がライターの火を差し出す。建平も手にした赤い箱から『中華』の煙草を引き抜いて一服つけた。二人の口から白い煙が吐き出され、風に流されて消えていく。隆嗣が呟いた。
「今から、行きたいところがあるんだが」
「判っているよ」建平が応じた。
黒塗りのベンツが夜の上海を駆ける。寡黙な運転手が走らせる車の後部座席に並んで座る二人には、もう会話は必要なかった。浦東から盧浦大橋を通って黄浦江を渡り、そのまま南北高架路を走る。中山北一路で高架を降りてしばらく進み、花園路で右折した。
眼前の闇の中に、大きなスタジアムが照らし出されている。魯迅公園の敷地を割いて設けられたサッカー場は、ゲームが開催される日には数万の老若男女がここへ集い歓声を上げているのだ。
昔、静寂の中で青臭い意見を闘わせていた思い出しかない建平は寂寥を禁じえず、かつての面影を捜し求めて視線を巡らせた。過去を引き摺り上海へ立ち寄ることを避けてきた19年間、想像していたとはいえ、やはりこの街は大きく様変わりしていた。
やがてベンツは速度を落として、魯迅公園正門前で停車した。建平は微かに安堵を覚えた。その正門の佇まいは、昔とさほど変わっていない。ドアを開いて隆嗣が路上へ降り立ち、魯迅公園の門を見上げた。窓を開けた建平が、その背中へ声を掛ける。
「今日ばかりは遠慮しておくよ。私はここで待っている」
隆嗣は返事をせず、ゆっくりと通りを歩き始めた。それは19年前に立芳が最期に辿った道である。時間まで同じ午前零時前。今日この時まで、隆嗣はここへ来ることを自分に制していた。
陳祝平の言葉を思い出す。『彼女は、魯迅公園正門側から駆けて来て、仲間が潜んでいた公園脇門へと続く路地への交差点で、身を挺して倒れた……』
隆嗣が、その小路への曲がり角に達した。車の離合も難しいであろう狭い路地の両脇に連なる裸体の街路樹が、その枝に風を受けて寂寥を増す音を立てている。広い正門側の通りから漏れてくる外灯の仄かな明かりに照らし出された、小さな道路表示板が目に入った。その路地に付けられた名称、『甜愛路』と記してある。
「甜…愛…路、なんて皮肉な名前なんだ」
この血塗られた路地が、甘い愛の通りだなんて。
頬を伝い始めた涙を止めることが出来ず、隆嗣は嗚咽を漏らし始めた。ついには両膝をつき、両手の掌を地に這わせた。立芳が倒れたであろうその場所を、優しく愛撫し続けた。
(つづく)