安全宣言から一転、ストレステストへ
もはや我々の理解を越えた政治の迷走

 最近の菅首相の言動は、我々の理解の範囲をはるかに越えている。原子力発電所の安全性についても、6月下旬に安全宣言を出したかと思えば、数日後には「安全性確認のためのストレステストを行なう」と言う。

 安全性の確認をより慎重に行なうと言えば、それなりの説得力はあるかもしれないが、一国のリーダーたる首相がわずか数日の間に見解をコロコロ変えては、国民は何を信じればよいかわからなくなってしまう。

 未曽有の大震災から4ヵ月が経とうとしているに、政府はいまだに復興に向けた大規模な補正予算を組むことができない。今までのところ、政府は復興の具体的なプランさえ示すこともできていない。色々なところで必要な手続きが進まず、多くの人たちが困窮の生活を余儀なくされている。

 今から数年前、ある政治専門家は「菅さんだけは総理にしてはいけない」と言っていた。最近、その評論家氏にあった。彼は開口一番、「残念だが、懸念した通りになってしまった」と指摘していた。

 彼によると、「菅氏の性格には、もともと子どものように短絡的な部分があり、それが悪い方に転ぶと、自分のためになると思えば思いつきで何でもやってしまう懸念があった」という。

 それが、“ペテン師”と呼ばれようが、与野党から「即刻退陣」を要求されようが、「われ関せず」の表情で首相の座に居座り続けている理由かもしれない。

 そうした状況を、私たち国民は「不幸だ」と言ってみても始まらない。菅首相を実現させた民主党に政権を委ねたのは、我々国民だ。政治を作るのは国民であることを肝に銘じて、真摯にこれからのことを考えるべきだ。政権担当能力のない政党を見破る術を、学ばなければならない。