言うまでもありませんが、誰もがひとりで生まれ、ひとりで逝きます。ですから、誰かが定義するしないにかかわらず、誰もが本来ひとりなのです。

 いつも自分は大勢でいるから孤独ではない、と言う人がいますが、そういう人に限って自分が孤独である事実を見ないようにしています。

 ひとりでいても、心が孤独でない人はひとりではありません。逆を言えば、大勢といても決断を下す時はひとり、あるいはそこに寂しさを感じたら孤独です。独居をしていても、ひとりという感覚がないという人もいるでしょう。

 つまり、孤独とは、ひとり暮らし、家族がいない、友人がいない、といった状況を指すのではなく、寂しさを感じているといった心の在り様を指すわけです。ここでは、物理的なひとりだけではなく、大勢の中にいても感じる孤独を含めた広い意味での心の在り様も示す言葉として、「ひとり」を使うことにします。

 ひとりとは、「人間本来の自由な状態」と私は解釈しています。
 もっと簡潔に、「あるがまま」「ありのまま」と言ったほうがいいでしょう。
 本来のあるがまま、人としてのあるがまま。そして、最も自由な状態。
 それが、「ひとり」なのです。

 私は、今という時間を大切にしたいと思っています。過去も将来も一体となった今を生きる、つまり古神道でいうところの「中今」です。

 ひとりであるという自由な状態をありがたいものと受け止めて、あるがまま、ありのままに「ひとり」を楽しんでいる時こそ、「没我」に、そしてこの中今を生きることにつながるのです。

ひとりの時間の3つのメリット

 ひとりの時間のメリットには、次の3つがあります。

(1)惑わされない
(2)自由に考えられる
(3)自在に動ける

 他人に惑わされない時間というのは、「自決する力」を高めます。
 自決とは、他人ではなく自分で決める意思であり、その態度のことです。

 この力が強ければ、たとえば集団内に身を置いていても、周囲に左右されることがありません。逆にこの力が弱ければ、いつも周囲に左右されます。

 自由に考えられる時間は、「想像する力」を高めます。
 自在に動ける時間は「幅広い関心を持つ力」を高めます。

 自決力、想像力、関心力。

 この3つは、情報が錯綜する社会において、楽しんで生きるための必須能力です。心の自由が得られる3つの能力なのです。

 作家ウィリアム・シェイクスピアは、「私はひとりでいる時が一番忙しい」と公言しました。古代ローマの政治家マルクス・トゥリウス・キケロも「人はひとりでいる時が最も精神的に多忙」と遺しています。

 ひとりの時間は暇ではないのです。