大正時代から現代まで、その時代の経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーでは、日本経済の現代史が語られているといってもいい。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』を紐解きながら歴史を逆引きしていく。
本当の理由を明らかにしないまま
「自由党」から「社会党」へ転身した和田博雄
1951年10月の党大会で、日本社会党は右派社会党と左派社会党に分裂した。
荒畑寒村(1887-1981)が「ダイヤモンド」(臨時増刊1951年12月15日号「財界人物」)で論評している和田博雄(1903-67)は、分裂後の左派社会党政策審議会長におさまり、1954年に書記長へ就任している。委員長は鈴木茂三郎(1893-1970)だ。
ちなみに、右派社会党の書記長は浅沼稲次郎(1898-1960)、のちに委員長は河上丈太郎(1889-1965)が就任した。
戦前の農林省、企画院の官僚、戦後自由党政権(吉田内閣)の農林大臣、社会党政権(片山内閣)の経済安定本部長官を経験した和田博雄は、分裂後の左派社会党の大幹部に転身したのである。
1955年10月の社会党左右の党大会で再統一すると、委員長は鈴木、書記長は浅沼と、左右の幹部がおさまったのだが、和田は再統一に反対し、統一後の要職に就くことはなかった。しかし、左派の重鎮として和田派を形成し、企画院時代からの配下、勝間田清一(1908-89)が1967年に委員長へ就任したことは前回書いたとおりである。
左右分裂の1951年にもどる。和田の転身は説明不足だとする荒畑寒村は、まずは世間の通説「和田論」を紹介する(★注①)。
「和田君のために弁ずる者は曰く、彼が自由党内閣に農相となったのは、既に農林省在官当時に深く農地制度を研究して農地改革の必要を痛感し、第一次吉田内閣(注・1946-47)の際に吉田首相の懇請をうけて、この大改革を実現するために外ならなかった。彼の出処進退はつねに理想と政策とによって決定されているので、彼が自由党とはソリの合わないことを悟って、吉田の意をうけた先輩の石黒忠篤(注・終戦時の農相)から口説かれても、ついに第二次吉田内閣に入らなかったはそのためである。
片山内閣(注・社会党政権1947-48)の折に、彼が片山首相と西尾官房長官とに口説かれて、経済安定本部長官に就任したのもそのためである。そして当初、右派の線で社会党に入った彼がやがて左派と結ぶに至ったのも、彼が片山のために有力なブレーン・トラストを作って、政策の立案に当たろうとした計画があまり顧みられないのに失望し、政策本位の左派と接近するようになったからである。」