上手に打つ、きれいに打つのではなく、
“ひとしずくの水”にこだわり、人を感動させる蕎麦を打つ
小学生の頃から父親に連れられて、カウンターのすし屋で握りをつまんでいたという山田さん。無類の遊び人だった父親は好んで息子を外食に連れだし、その影響で、自然とその舌は肥えていった。
そんな少年がそのまま大人になったのだから、肩がこるような仕事には向いてはいなかったのだろう。
ある日、蕎麦特集の本をもって食べ歩きを始めた。東京の蕎麦屋をあらかた回ったあとに信州に入った。そこで出会った「安曇野・翁」の蕎麦が、山田さんの運命を決めたのは、すでに述べた通りだ。
修業を求める山田さんに、店主は「1週間後にまた来なさい」と言った。
「“頭を冷やせ”ということだったんでしょうね」と、山田さんは振り返る。一時は熱くなって弟子入りを志願しても、結局は長続きしない者を店主は何人も見てきていたのだろう。
だが熱は冷めなかった。1週間後、山田さんは修業に入る準備をして再び安曇野を訪れる。それから3年弱、蕎麦打ちに明け暮れた。「“ひとしずくの水”が蕎麦を変える」――、それが師匠の教えのすべてだった。
「上手に打つ人、きれいに打つ人。そんな人は沢山いる。それにここは信州だ。ほとんどの家では蕎麦を打つ。そんな人たちが感動するような蕎麦を打て。」
師匠のこの言葉が山田さんの蕎麦打ち哲学のベースにあるのだろう。
“感動を与える蕎麦”――、それは“ひとしずくの水”が命運を握っているという。ゼロコンマ1ccにも満たない水である。
職人は蕎麦を打つとき、その日の天候、温度や湿度、粉の状態によって加水量※を微妙に変えていく。そのとき、わずかゼロコンマ1ccにも満たない加水量の差、つまり“ひとしずくの水”が蕎麦の味を大きく変えるというのだ。その見極めができるかどうかが、達人になれるかどうかの境目なのだろう。
※加水量:蕎麦はつなぎ(一般的には小麦)を入れる入れないにも関わらず、蕎麦粉の約40~50%の水を加えて打つが、その水の量を加水量という。加水量が多いと蕎麦はベトベトの状態になり、逆に少ないとうまくつながらない。職人によって、水の全量を一度に加える人と、一部を残して加え、残した水を調整用にする人がいる。どちらの場合にも、蕎麦がまとまるギリギリの水加減がプロの味となる。