アメリカのメディアは今、「スティーブ・ジョブズの死」で覆い尽くされている。テクノロジーメディアはもちろんのこと、一般紙やテレビも、ジョブズ氏追悼に大きなスペースと時間を割いている。
考えてみると、インテルやオラクルなど世界に名を知られたシリコンバレーのテクノロジー企業は数多あれども、インターネット以外の企業でこれだけ一般消費者にコネクトしていた企業はなかっただろう。ヒューレット・パッカードは例外かもしれないが、現在ではどちらかといえばB2B系の色が強く、イメージとしてはやはり地味で真面目だ。
一方、アップルは1976年の創業当初から、まったく違った波動に“チューン”していた。アップルという社名、すっきりしたかたちの筐体デザイン、GUI(グラフィック・ユーザーインターフェイス)やマウスを用いた操作のアイデアなど、この会社はまるで突然変異体のようにこの地に出現したのだ。
今でこそ、アップルはシリコンバレー生まれの企業として当たり前のように語られているが、あらためて見渡してみると、このような道を歩んだ企業がこの地にあること自体が、不思議なことだったように思われる。すべては、スティーブ・ジョブズという人間のビジョンと、それを実現したいという彼の執念がなし得たことだ。
ジョブズ氏の人生は、どこを切り取ってもドラマで彩られている。生後まもなく里子に出され、大学を中退し、地元のコンピュータクラブで荒削りな試作品を発表。21歳で起業した後は、ハンサムな顔立ちと巧みなセールストークで“アップル”を広め、若くして大成功を収めた。当時から、むら気と社員を「バカ」呼ばわりする独裁的なスタイルはよく知られていた。だが、30歳の頃には、自分で作った会社から追われてしまう。
そこから10数年間、ジョブズ氏はネクスト・コンピュータを立ち上げ、ジョージ・ルーカス氏から映像グラフィックス・グループを買い取って、会社を設立した(後のピクサー)。このころは、雌伏の時期だ。そして、ジョブズ氏のドラマ第2編は、彼がアップルに戻った1996年に再開する。
舞い戻るやいなや、当時のアップルが手を出していたさまざまな機器やソフトウェア関連の事業をばっさりと切り捨て、アップルの目標をプロ向けデスクトップとラップトップ、一般向けデスクトップとラップトップの4事業に集約した。そして次々と新しい製品、新しい戦略を推し進めていったのだ。