次官の話し方はあくまでもスマートで、当時の「誘導目標」だった公定歩合について「下げてくれ」とは一言も言わない。

 しかし、経常赤字縮小を目指し、急騰する「円高」を放置しているかのような米国を動かすため、まずは「日銀が公定歩合を引き下げてくれ」と言っていることは明らかだった。

 米国の財政と貿易の「双子の赤字」が止まらない中で、85年9月、米日独などの主要国が「ドル安是正」を決めたものの、ドル急落(円高)は止まらなかった。そうした中、米国から利下げを求める声が強まるなかで、日本としても内需拡大に努力している姿勢を見せる必要があったのだ。そこで公定歩合の引き下げを求めてきたのだ。

 日銀内には、引き下げに抵抗する動きもあったが、行き過ぎたドル安の是正を名目に、「円高ストップ」を打ち出す同年2月の「ルーブル合意」直前、日銀は公定歩合を2.5%に引き下げる。

 円高是正を米国に認めさせるための「手土産」的な性格があったこの引き下げで、公定歩合は当時の史上最低水準になり、日銀はその後、「バブルを生んだ一因だった」と指弾されることになる。

 それより前の1970年代、戦後、日銀最大の“失政”とされる「狂乱物価」も、日銀が政府と一体になって、金融緩和を続けていたことが背景にあった。

「ニクソンショック」で変動相場制に移行後、円の高騰を回避したい思惑から大幅な金融緩和が行われていた中で、石油ショックが重なり、さらには当時の田中角栄内閣の「列島改造」に伴う大規模予算が重なって、物価は異様な上昇を見せる。

 72年末にマネーサプライが前年比26.5%増加するなどの「過剰流動性」が発生、74年度には消費者物価が対前年度21%もアップした。

 このときの佐々木直総裁は、田中首相の意向に抵抗できずに引き締めが遅れたとされ、やはり“日銀犯人説”が指摘されていたのだ。

 では、これらの局面で、日銀は政府の意向を実際に拒否することができたのかと言われれば、答えは「ノー」だ。

 それは当時の法律にあった。

 当時の旧日銀法は、1942年(昭和17年)の戦時立法。「日本銀行ハ国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為」という書き出しで始まり、「総裁の解任権」や「一般的な業務指揮権」などを規定していた。

 この法律は第二次大戦後も改正されず、長らく金融政策では大蔵省(現財務省)が日銀よりも優位に立っていた。本店の所在地をもじって「大蔵省本石町出張所」などと揶揄されていたほどだ。