ソ連の「計画経済」では
インチキは当たり前だった

 この訪ソをきっかけに、神戸製鋼とソ連は急速に接近する。68年には、機械メーカーでもある強みを生かして、ソ連の国営航空会社に「世界にも例がない」(読売新聞1968年9月11日)という陸、海、空すべて一貫輸送できるというコンテナを輸出。そのような蜜月関係は、この連続鋳造技術の導入をきっかけにさらに強固なものとなる。

 79年になると、ソ連の科学技術政策を立案する科学技術国家委員会と協力協定を締結。技術シンポジウムを8回開催した。

 当時は冷戦まっただなか。アメリカからは、「ソ連に技術を簡単に渡すな」という強い外圧をかけられていた時代である。実際に87年には、東芝グループの企業の技師がソ連に招かれて、技術指導を受けてつくった工作機械を輸出したところ、アメリカから「ソ連の原子力潜水艦のスクリューの静かさを増すこと使われたじゃないか」と因縁をつけられている。

 だが、神戸製鋼はそのような「逆風」など意に介さない「親ソ企業」というスタンスを継続した。90年には亀高素吉社長(当時)自らソ連を訪れて、副首相と会談し、先の科学技術国家委員会と研究員同士の交流を図って、将来的にはバイオテクノロジーや新素材も開発するというパートナーシップを結んだ。

 なんて話を聞くと、「神戸製鋼が旧ソ連と交流があったのはわかったが、それが不正とどう関係あるのだ」と首をかしげる人も多いかもしれないが、それが大いに関係ある。

 覚えている方も多いと思うが、神戸製鋼がソ連の研究者や技術者と親交を深めていた80年代、当のソ連ではさまざまな分野での「粉飾」が横行していた。

 これはちょっと考えれば当然の話で、当時ソ連が固執した「計画経済」は、まずなにをおいても「目標」ありきで、これを計画通りに達成することがすべてである。「ちょっと無理なんで、やり方変えてみますか」という柔軟性に欠ける社会なので、どうしても「目標達成」が何をおいても優先される「目標」となる。無理ならインチキするしかないのだ。

 そんな当時のソ連の「粉飾文化」を象徴するのが、統計局が発表していた鉱工業生産実績だ。

 年を重ねるごとに前年同期の生産を下回る品目が増えていくので、産業用ロボットとか収穫用コンバインとか新しい品目を統計にホイホイ放り込んだ。こういうものは前年がほぼ生産ゼロなので、生産増加率はずば抜けて高い。全体の生産率を少しでも良く見せようという、苦し紛れの「粉飾」である。