大正2(1913)年の創刊から現代まで、その時代の政治経済事象をつぶさに追ってきた『週刊ダイヤモンド』。創刊約100年となるバックナンバーには、日本経済の埋もれた近現代史が描かれている。本コラムでは、約100年間の『週刊ダイヤモンド』をさかのぼりながら紐解き、日本経済史を逆引きしていく。

ねじれ国会の最中に行われた
大座談会「議会解散と政局」

 「ダイヤモンド」1936年1月1日号、この号でも政治家とジャーナリストによる大座談会を組んでいる。題して「議会解散と政局」。座談会が開催されたのは、1935年12月12日午後3時、会場は東京・銀座の交詢社だった。当時の政治家の肉声が聞こえて非常に面白い。

 1935(昭和10)年12月12日、座談会の出席者は以下のとおり。

・風見章(国民同盟代議士)
・頼母木桂吉(立憲民政党代議士)
・中島弥団次(立憲民政党代議士)
・前田米蔵(立憲政友会代議士)
・島田敏雄(立憲政友会代議士)
・松岡駒吉(日本労働総同盟会長)
・阿部真之助(東京日日新聞社主筆)
・佐々弘雄(東京朝日新聞社論説委員)

・石山賢吉(ダイヤモンド社社長)
・野崎龍七(「ダイヤモンド」主筆)

 この座談会当時の岡田啓介内閣(★注)は、1934年7月に斎藤実内閣の総辞職を受けて成立していた。5.15事件(1932年)で政友会内閣が総辞職したあと、政党内閣に反対する軍部の意向を受けて、軍出身の首相が続くことになった。軍出身首相のもと、「挙国一致」を旗印に軍部、政党、財界から閣僚を集めている。

★注・岡田啓介(1868-1952)福井藩生まれ、福井中学を経て海軍兵学校へ。海軍次官、連合艦隊司令長官を経て1927年に海軍大臣。1934年に首相へ指名され組閣した。

 政友会と民政党の対立は続き、岡田内閣は民政党が与党、政友会が野党の立場にある。高橋是清蔵相や床波竹次郎逓信大臣などは政友会幹部だっただが、入閣時に除名されている。つまり、岡田内閣は民政党主体の挙国一致内閣ではあるものの、野党的な政友会が衆議院の多数を占めるという不安定な状態だ。衆参でねじれている現在の民主党政権のようなものである。