今年3月に北海道日本ハムファイターズ社長を退任した藤井純一氏。昨年のドラフト会議で一躍注目を浴びた彼は、プロ野球とJリーグの両方で社長を務めた初めての人物でもある。この稀有な経験とそこで得た成功則を本人が語る新連載。第1回は、スポーツビジネスに足を踏み入れるきっかけとなったJリーグクラブ、セレッソ大阪での軌跡。

セレッソ大阪との出会い

 スポーツビジネスの仕事に就くなどとは、思ったこともなかった。球技はもともと苦手で、サッカーに関しても野球に関しても、知識はほとんどなかった。

 私のキャリアは食品会社の一社員として始まった。大阪に本拠地を置く日本ハム株式会社の営業マン。20代、30代はトラックで関西一円をかけずり回り、ひたすら商品を売った。その後営業企画部を経て、宣伝部に移り、CMその他の宣伝媒体の製作に携わった。

 当時の私の関心は常に、いかに低コストで高いパフォーマンスを挙げるかにあった。ソロバン勘定に抜け目のない関西ビジネスマンの典型だったと言っていい。あのころの私の眼には、社の持つスポーツチームは「お荷物」としか映らなかった。

 そう、当時東京にあった日本ハムファイターズに対しても、
「うちの会社、あんな赤字ばっかりの野球チーム持ってどうするんやろ?」
「あんなんやめて、金をこちらに回してくれたらもっといいCM作れるのに」

  と、思っていたのである。

 その考えが変わっていく最初のきっかけは、92年に訪れた。宣伝のトップとして「スポンサーを務められるようなスポーツを見つけてくるように」と上からお達しがあったのだ。東京にファイターズがあるならば、本拠地である大阪にもプロスポーツクラブを持ち、地域の活性化に一役買いたい、という方針を社が固めたのだ。

 その矢先、思わぬところからオファーが来た。ヤンマーディーゼル(現・ヤンマー)株式会社から、Jリーグ参画の誘いを受けたのである。のちの「セレッソ大阪」の前身である。紆余曲折を経て、私は取締役事業部長としてセレッソ大阪に赴いた。

 セレッソに入って最初に気になったのは、社員たちの当事者意識の希薄さだった。いわゆる「親方日の丸」体質というやつである。「もう少し経営面にも目を配ろう」と訴えてもなかなか通じない。