生活のすべての場面でこだわりを見せなければならない現代人

 現代人は、日々の生活で何かを選択するとき、付加価値や物語や理由づけをして「自分らしさ」を表現しないと気が済まなくなっているのかもしれません。

 最近のコーヒーショップの注文形態がまさにそれでしょう。

「ミルクではなく豆乳で」「ホイップクリームは多めに」

 お仕着せの商品であるにもかかわらず、そこに自分のこだわりを入れて「私仕様」のオーダーメイドにする。しかもそれを「符号」で言えるようになればより格好いいとされています。

 ランチひとつとっても同じ発想です。白米ではなく体に良い五穀米にしよう。昨日は肉を食べたから今日は魚にしよう。それも青魚で。面倒くさいから近所の弁当屋さんで済ませるというのは、こだわりのない格好悪いことだというのです。

 以前から、何かひとつにこだわりを持った人はいました。

 テレビの仕事でご一緒するプロデューサーの方は、服装に関するこだわりがものすごく強く、頭のてっぺんから足の先までこだわって選び抜いた末に買うそうです。

 自分の好きなことにこだわりをもつことは何ら不自然ではありません。むしろ、だれしもこのようなこだわる部分はもっているかと思います。しかし、自分の生活すべてにこだわりをもつ人はそんなにいないのではないでしょうか。

 事実、このプロデューサーの方は、食べ物に関してはまったく無頓着で、食べられる物であれば何だっていいとよくおっしゃっています。

 それなのに、昨今は、生活のすべてにこだわりがないと、「自堕落」「投げやり」だと受け取られるようになっているのかもしれません。

 ちなみに私自身は、ランチなど給食のような選べないスタイルが好きです。服装も制服を着るような仕事だったら、どんなに楽なのにと思ってしまうほど、こだわりのない「自堕落」ぶりです。

 その原因のひとつとして考えられるのは、ツイッターやブログの浸透です。

 こだわっているものを公開するのか、公開するからこだわりを持たなければならなくなるのか、どちらが先かは定かではありません。

 しかし多くの人が「自分」を発信しているいま、他人に見せる範囲において、こだわりを持つべきだという風潮があるように思えてなりません。