「いつ書かれたか」より
「いつ出会うか」が大切
──情報があふれ、社会がどんどん変化するなかでも、こうした古典をベースにした本が広く求められています。古典の魅力とは何だと思いますか?
古賀 古典のいいところは、「時間というフィルターがつまらないものを除去している」という点にあります。駄作は淘汰されていくんだから、いま残っている100年前の本は、本来おもしろいに決まっているんです。
だから大切なのは、それが「いつ書かれたか」ではなく、一人ひとりがその作品に「いつ出会うか」。たとえば、僕がアドラーの存在を知ったのは1999年。20代後半だった僕が、1937年に没したアドラーと60年以上の年月を経てたまたま出会い、新鮮なショックを受けたわけです。同じように、今年はじめて夏目漱石と出会い、衝撃を受けた中学生だってきっといるでしょう。それがその子のタイミングだったんですね。
岸見 それはよくわかります。私も子どもが生まれるまで、アドラーなんてまったく知りませんでした。自分の子とかかわる中で悩んでしまったとき、友人に「読んでみたら」と手渡されたのがアドラーの『子どもの教育』だったのです。タイトルを見て「教育学か心理学の本だろうな」と思いつつ読み始めたのですが……これがまさに、哲学の本だった。「いかに生きるべきか」が語られていて、驚きました。
古賀さんのおっしゃるとおり、本との出会いにはタイミングがあります。私だって、ちょうどあの時期だったからこそアドラーの言葉が強く心に響いた。『嫌われる勇気』を読んで「アドラーの考え方を10年前に知りたかった」と言われる方はとても多いですが、10年前だったらそれほど響かなかったかもしれません。「もっと早く知りたかった」と思われる方ほど、「いま」が出会うべきタイミングだったのです。
柿内 僕がはじめて古典らしきものに出会って衝撃を受けたのは、中学1年のときに見た1957年の映画『十二人の怒れる男』ですね。深夜テレビでたまたま放送していたんですが、冒頭のシーンをちらっと観たら……次の瞬間には終わっていて。気づかないうちに引き込まれていたんです。あまりにおもしろくて、もう一度観たくて、次の日すぐにレンタルビデオ屋に走りました。
それまで僕は、最新ハリウッド映画ばかり観ていました。「新しいもの=いいもの」「古いもの=ダメなもの」だと思い込んでいた。でも、そのとき純粋に「いいものはいい、ダメなものはダメ」だと気づいたわけです。本だって同じです。本質が捉えられていれば、書かれた時代は関係ないでしょう。
古賀 そして、本質的かつ普遍的な作品こそ、本(書籍)として読みたいと思ってもらえます。情報の鮮度で争ったら、本はウェブに勝てっこありません。「これから何がくる」とか「なにが流行っている」といった、明日に役立つティップスはウェブのほうが向いている。
じゃあ、どんなテーマなら本で読みたいか?やっぱり、人類が何百年と悩み続けていること、いまだ解けない課題——つまり「古典」が扱っているようなテーマだろうな、と。こういう長考を要するような重たいテーマは、ウェブでは逆にウケなかったりするじゃないですか。こうして、コンテンツは棲み分けられていくんじゃないかと思っています。
(終わり)