2014年9月に右足首の内側を骨折した影響で、2015シーズンの公式戦出場は2試合にとどまった。状態が完璧ではなく、途中出場がほとんどを占めた中で、それでも2016シーズンは5ゴールをあげて奮闘した。しかし、オフに「いつかは訪れる」と覚悟していた、FC東京との別れが訪れる。

 そして、捲土重来を期した新天地・仙台でもケガの連鎖が続いた。愚直なまでにケガと真正面から向き合ってきた平山さんだったが、もはや自分自身を奮い立たせることはできなかった。

ヘラクレス・アルメロでの挫折

 長崎県の強豪・国見高校で、2001年度から3大会続けて全国高校サッカー選手権に出場。歴代最多の通算17ゴールをマークし、2年次、3年次と連続得点王を獲得した平山さんは「怪物」の異名とともに、日本サッカー界の未来を担う逸材として嘱望された。

 Jクラブではなく筑波大学に進んだが、2年生だった2005年夏に突然休学。オランダ1部リーグのヘラクレス・アルメロでプロとなり、ルーキーイヤーは最終的にチーム最多の8ゴールをマーク。2006年春には筑波大学を自主退学し、プロ一本で生きていく覚悟を固めた。

 しかし、2年目のシーズンが開幕した直後の2006年夏に、ヘラクレス・アルメロを電撃退団。帰国してFC東京入りした理由をホームシックと説明したことで、心ないバッシングを浴びた。しかし、平山さんは後に、ホームシックとしたのは嘘だったと打ち明けている。

「プロ選手としての考え方を見つめ直さなきゃいけない、と思ってFC東京を選びました。オランダの1年目はJリーグでのプレー経験があるピーター・ボス監督が自分を理解してくれて、試合でも使ってくれた。でも、2年目になって監督が代わってからは話もしなくなり、その監督は新しいFWを連れて来てしまった。急に環境が変わり、試合に出られなくなった時に自分の弱さが出てしまった。それをごまかすための言葉がホームシックでした」

 8歳でサッカーを始めて以来、体格に恵まれていたこともあって、平山さんは常に試合で起用されてきた。ゆえに実質的な構想外となったヘラクレス・アルメロでの2年目で、特にメンタル面のコンディションを大きく崩してしまった。

 弱い自分を見られることを拒んだ、プライドとも言える感情はスパイクを脱いだ今現在は持ち合わせていない。引退セレモニーでは現役時代のメモリアル映像も、オーロラビジョンに流された。すごい選手だと思いましたか、とメディアから問われた平山さんは、苦笑いしながら首を横に振った。