私を野球に駆り立てていたのは、そのような、心の体験であり、同じ野球に情熱を燃やす仲間との魂の交流だった。ところが、監督や世間は、あまりそうした「目に見えない勝負」には関心を寄せず、また寛容でもなかった。

たった一度の負けで野球を奪われる高校球児

 高校野球の公式戦はトーナメント形式で行われる。一度負けたら終わり。選手起用にしても、戦術の選択にしても、自ずと危険を冒さない選択が主流になる。個々の選手のひらめきやトキメキなどは無視され、排除され、監督を中心とする勝つための定石や確率論が支配することになる。そうなると、かつての私のように、ひらめきやトキメキが好きで野球を志す少年の無邪気な感情や感覚は踏み潰されることになる。大半の高校野球のグラウンドに“楽しみ”は存在しない。それは、野球であって、野球でないに等しい。その息苦しさ、痛恨は、センチメンタリズム推奨の世相の中で、数十年もの間、蹂躙され続けてきた。

 決定的な体験は、高校3年の夏の地方大会だった。「負けたら終わり」はわかっていたが、いざ自分がその立場に立たされて初めて実感した。

 敗戦、引退。高校野球終了。

 それは、高校野球からの「永久追放」だった。

 戻りたい、戻れない。昨日までは練習をさぼれば断罪されていたのが、もはや選手としてグラウンドに立つことすら許されない。歓迎されない存在になる。なぜ、高校生でありながら、高校のグラウンドで野球ができないのか? もう二度と、高校野球の試合に出られないのか?

 なぜ。そんなルールが存在するのか? 高校野球を運営する側の大人たちは、そんな高校生の傷ついた気持ちを一切思いやろうとしない。高校野球からの引退は、おそらく9割近い野球少年にとって、真剣な競技としての野球からの決別を意味する。なぜ日本の高校生は、たった一度負けただけで、野球を奪われなければならないのか。

 夏の大会の後、高校生活はまだ9ヵ月も残っている。それなのに、強制的に野球場から追い出され、後輩の指導を手伝う以外の方法で野球に取り組む場を一切奪われる。それまで野球一色の生活を強いられながら、今度は一転、野球ゼロの生活に飛び込む。心のケアなど、一切ない。