やばい伊達政宗 謝罪の方法がどう考えてもふざけすぎ

 政宗が23才のとき、天下を統一した秀吉から「北条家を攻めるから、参加しろ!」と命令が下りました。でも伊達家は北条家と同盟を組んでいたので、政宗はどっちの味方につこうかグダグダ迷います。

 ようやく秀吉に従うことに決めたころには、戦はすでに終わりかけ。戦に遅刻するなんて、伊達家が秀吉にぶっ潰されてもおかしくない大失敗です。

 ところが、アイデアマンだった政宗は死装束を着て秀吉に会いにいき、「おくれてすみません! じつは次男をひいきしてる母に毒をもられて死にそうになってたんです。うそじゃないっす。でも結果的に秀吉さまを怒らせちゃったんで、おれは死ぬ覚悟で来ました!」と、怒濤のいいわけとともに頭を下げました。

 それにドン引きしたのか、逆に「あっぱれ」と思ったのか、秀吉はついゆるしてしまいます。

 こりない政宗は、次の年も反乱を起こそうとして秀吉にバレます。またしても政宗は死装束姿になりますが、それでは芸がないと思ったのか、金ピカのはりつけ台を自分でかつぎ、町中をパレードしながら秀吉の元へ行って謝り倒しました。

伊達政宗が「裏切り」を繰りかえしても許された「やばい理由」とは? 「やばい」から日本の歴史が見えてくる。

 その後「関ヶ原の戦い」のときも反乱に失敗し、徳川家康に謝っています。いくらなんでも反乱しすぎ、バレすぎですが、ぜんぶゆるされているのはもはや天才的です。

伊達政宗(1567年~1636年)
時代:安土・桃山~江戸時代
身分:出羽、陸奥守護大名、仙台藩主
出身:宮城
別名:独眼竜政宗
徳川家3代に仕え、仙台藩を大きく発展させた武将。
豊臣秀吉にも仕えたが、たびたび裏切りも起こした。政宗の子孫は「政宗は実の母に毒を盛られた」という衝撃的な話を残しているが、現代ではただの遅刻のいいわけと考えられている。
真田幸村は子どもたちを政宗にたくし、仙台真田家として生きのびた。

(本原稿は、東京大学史料編纂所教授 本郷和人監修『東大教授がおしえる やばい日本史』の内容を編集して掲載しています)

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