12/5(水)から日本橋三越本店での個展を控えている、今大注目の現代アーティストの小松美羽氏。そんな小松氏の人生に大きな影響を与えた「一編の詩」について、話題書『世界のなかで自分の役割を見つけること』から抜粋してお伝えする。

「自分の感受性くらい」

 画家やアーティストには感じる心が大切だといわれる。それは、本当だろうか?

 本当に画家やアーティスト、詩人や作家、俳優やミュージシャンだけが、感じる心を必要としているのだろうか?

 私はそうは思わない。感じる力はすべての魂が持っている。

 感受性がいらない人なんていない。感じる心は、誰にとっても大切だ。

 今この文章を読んでくれているあなたにも、感受性は大切だ。

 そのあなたが愛する人にも、そのあなたが憎む人にも、感じる心は大切だ。

 郵便を配達している人も、コンビニで会計をしている人も、パソコンに向かってデスクワークをしている人も、感じる心があるし、感じる心が大切だ。

 人間ばかりではない。犬にも猫にもウサギにも、魚にも鳥にも虫にも、命あるもの、魂というものには感じる力があるはずだ。

 感受性なしでできることなど、何もない。

 だが、感受性というのは宝物であり、ときとして重荷になる。なぜなら、つらいことばかりが続けば、魂も肉体もくたびれる。

 鋭い言葉を投げつけられれば、魂はずたずたに傷つく。

 一見、おだやかで幸せそうであっても、魂は「これでいいのか?」と不安になる。

 だから目をぎゅっと閉じて、耳を塞いで、唇を引き結んで、小さな部屋でしゃがみこみたくなる。色も、匂いも、形も、音も、気持ちも感じたくなくなる。

 私にも、そういうときがあった。

 私の座右の銘は「自分の感受性くらい」である。

 18歳の頃、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩を知り、強く心を動かされた。自分で紙に書き写して、今も東京と坂城町のアトリエ両方に貼ってある宝物のような言葉だ。

 幼い頃、ただ絵が好きで、見えない世界が近かった私の感じる心は、自由にのびのびと振る舞っていた。

 だが、思春期を迎えた中学生からは、まわりの友だちとうまく馴染めず、女子美術大学短期大学部に通っていた頃は将来について惑い、まさに「乾いてゆく心」をもてあましながら、それを「ひとのせい」にしたこともあった。

 そんなときに私はこの詩に出会い、目が覚めたのだと思う。頬をぱしりと張られたくらいの、強い衝撃があった。

 「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」

 絵を描いてもなかなか理解してもらえず、もどかしさを抱えていた頃も、繰り返しこの詩を読んだ。人にわかってもらう前に、自分が自分を理解し、自分で自分に水を与えねばならない。

 私はこの詩のおかげで、「かわいそうな自分」にひたり続けたり、「繊細な私」に酔いしれたまま終わらずにすんだのだと思う。

 その後も、「自分の感受性くらい」は、私の道しるべだった。

 卒業しても絵では食べていけず、長野に帰ろうとしていた頃は、「初心消えかかるのを/暮しのせいにはするな」というこの詩の一節を繰り返しながら、自分を諌めた。

 「東京に行って画家になる」という気持ちが薄らいでいた自分に「しっかりしろ」と言い聞かせた。

 なかなかチャンスに恵まれず、理解してくれる人など現れそうにないときは、「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな」とこの詩に叱ってもらった。

 まだわずか33年ではあるけれど、人生の節目節目にこの詩があったから、私は歩いてこられたと思う。

 あなたは自分の感じる心に、水をやっているだろうか?

 あなたはわかってもらえない自分を、時代や人のせいにしていないだろうか?

 あなたは感じる心を持った自分の魂を自分で守り、大切にしているだろうか?

 これからの人生は、宝物のようなこの詩を大切にしながら、自分を奮い立たせる、自分なりの新しい言葉をつむいでいきたいと思っている。