翌年の98年8月、ロシア危機を引き金となって、野村は米国のCMBS(商業用不動産担保証券)で巨額の損失を計上、2000億円以上の最終赤字に転落した。その結果、証券会社の健全性を示す自己資本規制比率が急低下した。

 おまけに、系列ノンバンクの野村ファイナンスの不良債権が拡大し、1兆円近い損失処理を迫られた。資本が大きく毀損した。資金調達が困難になる流動性危機に加えて、資本不足の危機に襲われたのである。格付けは急落した。現在からは想像もつかないことだが、野村は経営危機の只中にあった。

 最前線の指揮官が取締役に昇進していた財務兼審査担当の渡部だった。こうした事業の撤退(CNBS)や会社の破綻処理(野村ファイナンス)につながるような巨額の損失処理は、入念な準備と迅速な実行を必要とする。彼はそれを十分に理解していた。スキルも積んでいた。その4年前、第一次の野村ファイナンス危機を特命部長として処理を取り仕切っていたからである。 

 彼は細心を払って損失処理計画を詰める一方で、当時のさくら、三和、興銀の3銀行それぞれに1000億円ずつ劣後ローンを要請、さらに第一勧業銀行、大和銀行などにも広げた。巨額の資本増強策で、資本不足の窮地を切り抜けようとしたのである。

 当時の銀行は、揃って巨額の公的資金による資本注入を受けていた。不良債権の抜本処理あるいは信用収縮解消のための公的資金を野村に回すのかといった批判に、過敏になっていた。それでも、各行は応じた。証券界を巻き込んで再編機運が高まっていた当時、各行にしてみれば野村は極めて魅力的な対象であり、少しでも距離を縮めたかった。その競争心理を巧みにあおった、したたかな交渉だった。その中心に、渡部がいた。渡部は野村の危機の実相を、誰よりも知り尽くしているのである。

 一方、90年代末の財務危機を脱するにつれて野村は2つの目的から新しい経営の器を必要とした。第1に市場の変化に戦略的かつ機敏に対応して収益を拡大するため、第2に高い経営規律を保つためである(損失補てん事件、総会屋事件に続く第3の反社会的事件は絶対に避けなければならなかった)。