一方、母親のことは尊敬していました。尊敬する人はと聞かれれば、今なら孫正義さんなどの経営者を挙げますが、10代のころは母親と言っていた。

 母は、公文式の先生をして家計を支えていました。(東京都)板橋区内の家の近くともう1カ所の合計2カ所の教室を経営し、仕事を終えて帰ってきてから家のことをするという毎日でした。私も、家で公文式のプリントを解きながら母の帰りを待っていました。

 苦しい家計でも母は子供の希望をかなえるべく頑張ってくれて、「あれは駄目」「これはやるな」とは言いませんでした。ただ、ファミコンだけは買ってもらえませんでした。友達はみんな持っているので、それだけがコンプレックスでした。その反動で後にプロゲーマー活動をすることになるんですけど、それも止めませんでした。

──勉強はできたんですね。

 家は貧乏でしたけど、姉が学費の安い国立の東京学芸大学附属小に通っていたので、私も小学校受験をしました。ところが、学芸大附属小の第1次選抜は抽選なんです。私はくじに外れてしまい、試験を受けられませんでした。自分で引いて外れたのですから、誰にも文句は言えません。ただ、そのくじに外れたことの意味を、その後、区立の小学校に入学して知ることになります。

 小学校3、4年生のころには、自分は周りとは違うことに気が付いていました。公文式で連立方程式とかをやっていたので授業が退屈で、試験もつまらない。足の遅い子に合わせて走るようなつらさがありました。そこで、自分から中学受験をしたいと申し出ました。

 母は5年生から塾に通わせてくれて、公文式では学べない理科・社会の学習の機会をつくってくれましたし、また、私立中学の学園祭にも連れていってくれました。十数校、行ったと思います。そこで一番自分に合うと感じたのが海城中学校でした。偏差値主義や合格確率とかで決めず、第一志望で受験し、合格しました。

 前身は海軍予備校なのですが、入学してみると先生方は穏やかな方が多く、そこもフィットしたなと思います。自由な雰囲気で、やりたいことの邪魔をする大人がいなかったのは大きかったですね。

──中学校では「遊戯部」を立ち上げたとか。

 自発的に立ち上げて部長に就任しました。帰り道に、ゲームセンターでゲームをするという部です。もちろん、非公式です。

 部員は50人ほどで、ガラケーのメールで「今日は何時にどこ」と連絡を取り合い、大久保や高田馬場のゲームセンターに繰り出したり、新宿や池袋にも遠征しましたね。特に新宿スポーツランド西口店は聖地で、今、プロゲーマーとして活躍している梅原大吾さんと戦ったこともあります。