急激な構造変化の時代にあって、組織内外を変革するべく日々悪戦苦闘しているリーダーたち──。「週刊ダイヤモンド」は、そんな「チェンジ・リーダー」に向け、有用な情報を発信していきたいと考えています。そして実際に、時代を変えるイノベーターとして活躍している若きリーダーたちから話を聞きたい。最大の関心は、彼らが「どう育ってきたか」です。それは、これからの教育の在り方を考え直す機会にもなるはず。第1回は社会起業家の牧浦土雅(まきうら・どが)さんです。(聞き手/「週刊ダイヤモンド」編集長 深澤 献)

目立ちたがり屋の
トラブルメーカー

──小学校は学習院初等科で、中学校は東京都杉並区立和田中学校。進学に際して何があったのでしょうか。

 小学生のころはトラブルメーカーで、毎週のように親が学校に呼び出されていました。トイレで用を足している友人の体を後ろから揺らしたり、同級生の皇族(プリンセス)に志村けんのギャグを教えたり(笑)。それが正しいかどうかを考える前に、やってみたくなったらやってしまう子供でした。幼稚園のときには、園のトイレの洗面台の脇にあった水道管に上りたくなって、上ってみたら壁と管の間に脚が挟まって抜けなくなって、消防隊に助けてもらったこともあります。

 小学校5、6年生のころに、和田中の校長に就任されたばかりの藤原和博先生(編集部注:教育改革実践家)の自宅に遊びに行く機会がありました。父と祖父は藤原先生のリクルート時代からの知り合いだったのです。そのときに藤原先生から「和田中に来い」と誘っていただきました。僕は藤原先生の長男と同い年で、そのときもその長男の部屋で楽しく遊んでいたので、深く考えることなく、楽しい方へ行こうと思って、渋谷区に住んでいながら、和田中に進むことを選びました。もともと性格的には人見知りの逆、社交的だったので、すんなり溶け込めました。今でも、一番仲がいいのは、この中学時代の友人です。

 社交的なのは、両親の影響もあると思います。子供のころからいろいろな所へ連れていかれ、大人と触れ合う機会がありました。

──ご両親はどのように牧浦さんに接していましたか。

 厳しかったですね。特に、マナーについて厳しかったです。あいさつをするときは帽子を取れとか、レディーファーストとかいったことを言われ続けました。習い事もだいぶやらされて、月曜から金曜まで、毎日、別の習い事に通っていました。東芝府中のグラウンドまで習いに行っていたラグビーもそうですし、野球、スキー、合気道、水泳、絵画、観世流の能……。両親がやっていたものは取りあえず全てやらされました。小学校のときの卒業文集には将来の夢として、夏は建築士として働き、冬から春はモーグル選手として活動したいと書いています。

──和田中の授業は私も何度も見学しましたが、ユニークですよね。

 一般的には、藤原先生の授業の印象が強いと思うのですが、ほかの先生の授業もとても面白かった。数学の先生は、生徒の脳のスイッチをオンにしてからじゃないと数学を教えても意味がないからと、授業の最初の15分間はミニクイズを出して生徒を乗せていましたし、英語の先生は、英語のドラマを見せてから、その内容について日本語で感想を話させて、英語を聞いて考えさせる授業をしていました。