事故の原因については、県警の捜査と国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(事故調、現在は運輸安全委員会に改組)による解明が進められた。指摘されたのは、列車に1分20秒の遅れがあり、運転士が遅れを取り戻そうとしたためなのか、事故現場のカーブは制限速度が70キロなのに116キロで進入し、脱線・転覆したとされる。

 運転士がなぜそうした危険な行為に及んだのか。

 JR西日本は国鉄時代から私鉄各社と競争を強いられており、民営化後は列車の本数増や所要時間短縮など利益を出すためのサービスに追われ、安全対策がないがしろにされたと指摘された。

 そして、運行でノルマが達成できない場合、運転士らにペナルティーとして「日勤教育」という懲罰を与えていたことが判明する。内容は就業規則の書き写しやレポートの作成、草むしりやトイレ掃除など、いわゆる「さらし者」「見せしめ」のほか、軟禁状態にして罵声を浴びせ続けるケースもあった。

 運転士が死亡している以上、日勤教育が事故原因とされる「速度超過」の引き金だったかどうかは証明できないが、事故調は「関与したと考えられる」と言及している。

現場に無理強いされる「安全」

 平成改元後に発生した大惨事は「信楽高原鉄道列車衝突事故」だ。

 1991(平成3)年5月14日午前10時35分ごろ、その事故は起きた。第三セクター「信楽高原鉄道」(SKR)信楽線小野谷信号場-紫香楽宮跡駅間で、SKRの信楽駅発貴生川駅行き普通列車とJR西日本の京都駅発信楽駅行き臨時快速列車が正面衝突した。

 SKR側の先頭車両は2両目とJR快速の先頭車両に挟まれて押しつぶされ、原形をとどめていなかった。快速もフロント部分がめり込むような形になって上に折れ曲がるなど、すさまじい衝撃を物語っていた。

 結果、JR西日本の快速は乗客30人が死亡。SKR側は乗客8人と運転士・添乗員4人の計42人が死亡、614人が重軽傷を負った。臨時快速は定員の2.8倍という混雑で、人的な被害が増えてしまった。